田原藤太秀郷 中
さるほどに竜女は藤太秀郷をさまざまに
もてなし慰め給ひけるほどにやうやう時刻
も移りければ藤太は大王に暇を乞ひ
竜宮を出られける海中を歩む事刹那の
ほどと覚ゆれば勢田の橋にぞ着かれけるそれより
父のもとに行き村雄朝臣に対面してこの
ほどの有さまをはじめより詳しく語り給へば
父母不思議の思ひをなしなのめならずに悦び
たまふそれにつき竜王の引き出物に黄金造り
の剣黄金札の鎧赤銅の釣り鐘
をたまはりたり剣や鎧は武士の重
宝なれば末代子孫に相伝すべし
鐘は梵刹の物なれば俗の身に従へ
せんもなし三宝へ供養すべしされば南都へ
やたてまつらん比叡山へや奉らんと申されければ
父の朝臣此よしを聞きてげにも誠に一々の稀代
重宝なり中にもかの撞き鐘を精舎
に寄進し奉り当来の値遇を祈らん
こそありがたけれ諸仏菩薩の御内証
いづれも一大方便といひながらことさら三井
寺の本尊へ奉りたまへそれをいかにといふに一つは
当国なり又かの寺の鎮守新羅大明神と申は
弓矢神にておわしませば子孫の武芸を祈る
べしさて又かの寺の御本尊は弥勒薩埵にて
おはします此度の功徳によりて五十六億
七千万歳三会の暁慈尊の出世の御時
見仏聞法の結縁ともなるべし其うへ
南都も北嶺も撞き鐘すでに成就
せりかの三井寺と申にいまに鳧鐘の響きも
なし速やかに思ひたち給へと有しかば藤太委細に
承りさらば三井寺へ参ずべしとて園城
寺へつかわさる千常三井寺へ参時の長吏
大僧正に謁して件の趣申ける