田原藤太秀郷 下
さる程に平のさだもりは、官兵二千よきをした
がへ、あしがらはこねを夜の中にうちこへ、承平三年
二月十三日と申には、むさし野に着にけり。こゝに
して、秀郷のぜいとあはせて、三千よきとね川をうち
わたして、あくれば二月十四日しもつさのくにいそ
はしにぢんをとる。まさかど此よしきくよりも、「わが城へ
いらせてはかなふまじ」とて、しゃてい下野の守まさより
同じく大あしはらの四郎まさひらに、かづさ、ひたちのぜい
四千よきをあひそへ、おなじ日のむまのこくにかう嶋
のこほりきた山といふ所に出して、ぢんをとらる。貞盛
かたきのぢんにはせよせ、大おんあげて申やう、「たゞ今
こゝにすゝみ出たる兵をば、いかなるものとぞおもふらん。ちかくは
めにもみよ。とおからんものは、音にもきけ。人皇五十
代の御門のこうゐん、鎮守府の将軍平の国香が
一なん、上平太さだもりなり。けうぞくのらんぎゃくを
しづめんために一天の君の宣旨をかうぶり、たゞ今こゝ
にむかふたり。つちも木もわが大君のくになれば、いづくか
けうとのすみかならん。すみやかに弓をふせかぶとを
ぬいで君の御かたに参るべし」とよばゝりけり。まさより
聞てからゝゝとうちわらひ、まさしき兄弟をすてゝ君に
まいらば、ちうしんとや申べき。聖代のむかしは王位もお
もくましますらん。かたじけなくもまさかどのいせいに
十ぜんの君と申共、いかでかたいやうし給ふべき。かつう
はいくさがみの御たむけにたゞ一矢うけてみ給へ」と
いふまゝに、五人ばりに十五そく、つるぎのやうにみがい
たるをとつて、からりとうちつがひかなぐりはなしに
はなちけり。むないたにつるやせかれけん。おもふ矢つぼ
にはあたらず、さだもりがのつたる馬のさんづに
あたつて、づとぬけにけり。馬は屏風をかへすごとく
にたふれければ、さだもりは乗りかへにのつたり
けり。まさより一の矢をいそんじ、やすからず思
ゑば、三尺八寸のうち物ぬいてさだもりをめに
かけてうつてかゝる。くわんぐんには貞盛の兄弟むら
おかの二郎たゞより、同三郎よりたか、よごの
これもり、これもちなんどとて、一人たうせんの兵