都踊


データ番号012_2
作者名江馬務(えまつとむ)
解説美人の典型は京美人といはれ、京美人の淵藪は祇園(ぎおん)の地を推す。今この地の由来を尋ぬるに、清和天皇貞観(じょうがん)の頃八坂神社(やさかじんじゃ)の前身感神院(かんしんいん)建立により此辺に人家櫛比し、桃山時代(ももやまじだい)よりは参詣の人を休憩せしめて茶を飲ます店ここかしこに開かれ、その茶汲女は客に媚を売りて若き男の心を留めぬ。寛文六年(かんぶんろくねん)より此の地に茶屋渡世を公許ありてより後、茶はかりそめにて、花に月に酔を勧むる盃にえならぬ色香をとどめて明治に至れり。明治二年(めいじにねん)車駕御東遷によりさしもの此の地も寂びれしを、時の知事長谷信篤(はせのぶあつ)参事槇村正直(まきむらまさなお)は一力(いちりき)主人杉浦氏と謀り、明治五年(めいじごねん)我国第一回の博覧会開設を機とし、小堀松の屋(こぼりまつのや)席にて片山春子(かたやまはるこ)氏が舞の趣向をなし、槇村氏作の世界国づくしの歌を三十二名の藝妓に舞はしめ、大に世の喝采を博せり。是れ都踊の濫觴にして、今も四月中歌舞練場(かぶれんじょう)にて行はる。舞台は伊藤馬直(いとううまなお)氏、背景野村芳光(のむらよしみつ)氏、歌は猪熊海麿(いのくまうみまろ)氏に嘱し、風俗は予の指導に係る。昭和二年(しょうわにねん)の呼物は富山麦屋踊にて、舞妓を平家の公達に扮せしめてふりをかしく舞踊したり。京美人の粹は背景の美、転換の巧、舞踊の艶、歌曲の妙など綜合藝術と共に遺憾なく表現せられて、一千の観客をして垂涎三千丈たらしむ。げに女の髪には大象もつながると、兼好法師がいへりしも宜なりとぞ覚えし。