解説 | 色好まざらむ男は巵の底なきごとしとは兼好(けんこう)もいへりき。人目忍ぶの郭も多かるが中に、島原(しまばら)の郭は応永(おうえい)に始まり九条(くじょう)、二条(にじょう)、六条(ろくじょう)、柳町(やなぎまち)と移りて、寛永十七年(かんえいじゅうしちねん)今の地に定められぬ。さらば垣、衣紋橋(えもんばし)、さてはありんす、ありなまんすの郭言葉は泯びても、大門傾城の賢なる出口柳の風情は残り、今も翠帳紅閨の中に閉花羞月の色香かは、心こはき男の魂もいかで溶けずやは。例年の四月廿一日にはこの郭に道中とてあり。先づ花車は童女によりて牽かれ静々と練りゆけば、藝妓数々随ひ、そのあとに太夫、禿・引舟とを従へて、男衆のさしかけ傘に蔽はれながら、立兵庫片外し錦祥女藤娘長一などの髷に、花櫛は本長崎二枚櫛、くし止の頭飾きらびやかに、目もさむる打掛の下に縫箔刺繍の三枚重ね、唐織の帯のし結にし、黒塗三本歯の下駄をからりころりと八文字ふみわけて、下鬘の傘止には心も奪はれぬべし。げに京人形に魂いれし姿とはこれなどをや例へつべき。当日これ見むとてこの郭に轟々とつめかくるもの、早朝より数しれず。午後四時の道中まで地上に莚しきて待つなど、太夫の権勢は又格別ぞかし。 |