稲荷大山祭


データ番号056_2
作者名江馬務(えまつとむ)
解説初春とはいへ睦月五日のことにしあれば、稲荷山の谷々は北風を孕みて冷気一入いみじ。そを物ともせず御前谷は拝観の老若男女をもて埋め、況して杜氏の若者ども法被姿にて縄張外に腕を扼して甲斐甲斐しく居並ぶ。神職一同浄衣に日蔭の襷がけ、白丁をして白酒盛れる土器七十を入れたる唐櫃を舁がせ、縄張のうち所定の處に供へ、修秡祭文朗読おはり、今や其の唐櫃の蓋開かむとすれば、待ち設けし若者は吾先にと人押しのけ縄飛び越えて唐櫃の中なる土器を奪ひとらむとし、互に犇きあひ殺気満ちわたり、その物凄さいはむ方なし。昔は神職祭のあと宴を行ひ、土器を捨てしを拾ひしなるを、今はかく狼藉に陥れるはいと悲しむべし。さあれ土器の破片は家門繁昌造酒のまじなひとて、二三十円に売れることなればさもあらむかし。