羽倉可亭 : はぐらかてい : HAGURA KATEI
平安人物志(文政13年版) ( 文政十三年寅初冬再刻 ) Page 00360 に見られる記述 分類: 篆刻 羽倉可亭 - 号 : 可亭 - : - ( 伏見稲荷) - (俗称) 羽倉伯耆守 平安人物誌(天保9年版) ( 天保九年戍五月改刻 ) Page 00530 に見られる記述 分類: 篆刻 羽倉可亭 - 号 : 可亭 - : - ( 伏見稲荷) - (俗称) 羽倉駿河守 平安人物誌(嘉永5年版) ( 嘉永五年壬子正月改刻 ) Page 00678 に見られる記述 分類: 篆刻 荷田可亭 - 号 : - : - ( 伏見稲荷) - (俗称) 羽倉駿河守 平安人物志(慶応3年版) ( 慶應三年丁夘初夏改刻 ) Page 00839 に見られる記述 分類: 篆刻 荷田信 - 号 : 可亭 - 字 : 子文 - ( 伏見稲荷) - (俗称) 羽倉駿河守 「「平安人物志」掲載諸家関連短冊」における解説 名前: 羽倉可亭 解説: * 羽倉可亭( 〜明治20年) 篆刻家。名は良信、字は子文、可亭はその号、別号を亦可草堂とも云う。伏見稲荷祠官延年の子、延年没後同宗目代信賢に養われその嗣となる、年十四従五位下駿河守に任じ十七にして非蔵人十八権目代に補せられたが文政五年二十四の時其職を辞し後四方を漫遊して篆刻書画を業とした。少くして村瀬栲亭に就いて儒を学び刻苦累年、又画と篆刻を僧月峯に学び後画は岡本豊彦にも学んだ更に江戸に赴いて大窪詩佛の門をたゝき細川林谷の教えによって篆法の妙を会得した。明治新政府樹立と同時に宮内省の命をうけて御璽六顆を刻し、又山水画数幅を描き諸親王の為の刻印と共に悉く其影を留め「天漢&cx6f62;清流帖」を残している。殊に有栖川宮の寵遇を&cx4749;り黄玉の茶銚を賜はつた。明治十九年八十八祗園の中村楼に米寿の賀筵を催したが来会者百余名に及び山階・久迩両親王からも祝賀の和歌を賜はつた。翌二十年八月十二日竹坊に於いて没した。年八十九稲荷山の墓碑には三国幽眠撰文の銘が刻られている。(文政十三 篆刻家 天保九 同上 嘉永五 同上 慶應三 同上) |
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