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人物名

人物名宮筠圃 (宮崎筠圃) 
人物名読みきゅういんぽ(みやざきいんぽ) 
場所尾張  京都 
生年 
没年 

本文

筠圃宮氏、諱奇、字子常、故に通名常之進といふ。尾張国海西郡鳥地村の人、生来温厚謙遜にして、しかも聡慧強記、十歳既諱ニ詩を善す。父是にいへらく、勉よや、吾業を継ずば我子にあらじと。十三歳の時、母氏背に灸す。筠圃頻リに涕泣す。母氏、熱に堪ずやととふ。答ていふ、しからず。吾聞、身体髪膚敢て傷ひやぶらざるを孝のはじめとすと。然るに灸せざればかなはぬ病身なるを歎侍るのみ、と。生につかへ死を喪せる孝心、始終かくのごとし。年十八、父母ともに京師に来り、其父東涯先生に学をうくるが故に、亦次て是に事ふ。東涯歿て蘭嵎に従ふ。学成て其名藉甚。来学ぶもの多し。又書は趙子昂をまなび、深ク軌範を得、また画を能す。画竹はことに風韻一家をなせりければ、世人平安四竹の一とす。四竹は浅井図南御園意済、山科宗安、宮筠圃等なり。 かゝれば其書画を請者、月に日に絶ず。母氏かくのごときを見て、いさめていふ、おそらくは人、汝をもて画工とせんと。筠圃是に感じて又画ず。其後故郷の甥の家に投宿せし町、甥氏紙筆を出して請こと頻にして曰、母堂にはよきにまうさん、吾にして君の画を蔵サずばあるべからずと、一夜責れども、終に筆をとらず、一たびとゞめし言を食ず、他人への義を省ミて、甥氏に私せざるべし。書も亦次てとゞむ。かゝれば世ますます其書画を珍重す。京師に住ること数十年といへども、俗習に染ず。世情に疎ことは、一日東間山に往てかへさ、雨にあひ、二条加茂川の東なる賤奴の居処を過、簷下をあゆみてこれを避るに、奴ども入り給へと頻に呼ぶ。先生帰りて人に語らく、仁とふものは実に人の固有也。吾雨にあへるを見て彼輩頻に呼ぶ。傘を貸さんとなるべし、といへりしかば、人笑ひて、仁といふものと異名す。謙遜の跡は、其相識、悟心和尚の詩集の序を書れしにも、其辞気弟子の列につくものゝごとくなれば、和尚辞すれども不肯。是まさに予が知る所なり。凡近世の諸儒、誇大自負風をなすに表裏し、其名の奇をこのまず、字の常をつとむ。是即奇なりといふべし。されば郷党に交ること愚なるがごとく、友人と会しても必座を下りて懼るに似たり。終るとき五十八。東山永観堂の墓地に葬る。門人私ニ諡し行恭といふ。所著ハス。備考録、経説、詩文集数巻、皆いまだ稿を脱せずして簀を易。をしむべし。

図版