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人物名 |
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本文 |
村上等銓は平安三条油小路に世々医を以業とす。十六歳にして専ヲ行る。廿二歳にして、東山院の皇子の御急症に功を奏し俄に法眼を賜ふ。後法印に叙し、春台院の三字の宸翰を賜ふ。又御製を下さる。其庭に松樹ありと聞し召、松によする祝といふ題とぞ。思孝、幼年にして其御製を拝せしが、忘れたり。其松即御製の松とよびて能繁茂せしが、家絶たるころ、いかゞ成しやしらず。此法印、性大胆にしてしかも貪らず。或時、広島侯の不例を治し、其かへさに面白キ石どもあまた船につみた来りしが、いかゞ思ひけん、備前の沖にして、皆海に投捨つ。又薩摩侯の医療せし時も験ありて、褒美望みに任すべきよし御内意ありしに、法印暫ク思惟して、御国の馬かけを所望しければ、けしかる望也、金をも扶持をも望てんと思せしにと、重て其旨を伝られけれど、望しからぬよしを申ければ、一日、大饗をたまひ馬かけを見せ給ふ。生涯のあらましすべてかくのごとし。医術の筆記若干ありしが、晩年おもふ所有とて、皆焼すてつ。その余、奇事多かれど失ぜり。 (追記) 蒿蹊云、おのれ幼年の時、吾家へもむかへて女弟が療にあづかりしが、是は露ばかり験なくて身まかれり。予、幼なくて其行状ははつかも聞知ことなし。たゞ、耳疎き老人とのみおぼゆ。亜科には其比山科家と共に名ありし人なり。 |