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人物名 |
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本文 |
三輪希賢、字は善蔵、即常の称とす。号は執斎、又躬耕廬ともいふ。洛北加茂に住、又浪華、江戸などにも子息の縁によりて居り。はじめは朱子学にて、後陽明良知の学を唱ふ。為リ人ト柔和謙遜にして道を任とす。其徳周く聞え、京兆尹某ノ侯みづからおはして三度請ヒ給ひ、訴を聞給ふ陰にをらしめて、其理の当否をとひ給ふ。又酒井侯に報ぜし書、親切著明なる中、人主、又学者の病にあたれる所こゝに挙す。 今聖賢の心術を学ばずして、其なせる事業をのみ見て事々物々にて是を尋究め、智を尽せりとおもひ、其しれる所をまね行ひて、よく是を行ふと思ふ。これみづからは聖学なりとおもふらめど、則覇者のしわざなり。能クしり行ふといへども天道にあらず。又義襲て、是をとるのみ。夫レ既に此心法なくして知をきはめんとて、事々物々にて道理を尋るは、闇夜にともし火なくして物を探るが如し。しれる所似たりといへども、終に自得の学にあらずして、却て人我の隔出来り、人欲の私、勢ひを得、案排措置して、意必固我をなすゆゑに、物学ぶ諸生は大やう常人よりおとり、是を教る師は、諸生より又ひがめるかた多し。如何となれば、三欲の大敵三欲とは此前の条に云、人欲動て本心を害する亦其品多し。中にも大敵となれる巨魁三つ有、色欲、利欲、名聞なり。 をさらずしてしる所多ければ、其知ル所、己が欲をたすけて、みづから高ぶり人をかろしむ。行ふ所人にまされるものあれば、その行ふ所またおのれが欲をたすけて、自ラ高ぶり人をかろしむ。たとへば食は民命をすくひて一日も是なければ死すといへども、食に傷れし人、其食毒をさり、傷れを補はずしてこれに食をすゝむれば、かへりて病を助けて民命まさに尽んとするがごとし。略下 其学風、心術の大体を見るべし。著述の書は、易手記二冊、日用心法一冊、堯典和釈一冊、四言教解一冊、伝習録解三冊、雑著四冊、救餓法一冊、以上皆写本にて世にしる人尠きを、老儒福井氏かたがたにもとめて蔵さる。此外にありやしらず。又和歌を好まる。凡儒生の間に是ほどに歌よむ人はまれなるべし。雑著の中、四言教のうた有。ことがきは略ス之ヲ四言教は陽明先生の説也。
無ク善無キハ悪心之体、 行舟も何かさはらんよしもなくあしもなにはの水の心に
有リ善有ルハ悪意之動、 そことなくそよぐなにはの浦風によしあしのはや乱そむらん
知リ善知ルハ悪ヲ是レ良知、 よしあしのかげはまがはじ難波江やそこ澄わたる水の鏡に
為シ善ヲ去ル悪ヲ是レ格物、 よしをとりあしを刈なばふしの間にまよふなにはの夢もさめまし 以上は、なにはの菅氏によみておくり給ふ所とぞ。此外うたども多し。中に初春のうた、ほのぼのと朱の玉垣うちかすみ其かみ山に春はきにけり 此ほのぼのの初五は避べきものをと、或卿、難じ給ひしかば、されば避なんと存侍へど、他に置べき詞を得ずと申しされしかば、其卿いろいろにかへて見給へど、げにも詞なければ、さはくるしからじとのたうびしとぞ。蒿蹊云、此初五を避るは近世のこと歟。ほのぼのとあかしのうらのうたを憚るとなり。されども其後此初五のうたいくらといふかぎりをしらず。 又ある時、三つ輪ぐむ老が住家をこゝとしれ門にしるしの杉はなくとも 三輪の氏によりて家の紋も三つの鳥井の形也。それを老の姿にとりなされたるも興有。建仁寺中両足院に先人の墓あれば、七十一の時みづからの墓をも筑き、自筆にて其石のうらに書付られし。
先塋の後に予が終の住所営けるに、幸に杉の二本有けるもたゞならず覚えければ、 たらちねにかへす此身をおきつきのしるしとぞみる杉の二本 契おく玉のありかをこゝとみよからはいづくの土となるとも 元文四年冬 希賢七十一歳書 後五年を経て寛保四年甲子正月廿五日に残す、享年七十六也。子息は四五人ありしを大かた異姓を嗣しむ。蒿蹊按ずるに、雑著中、養子の辮を辮ずるといふ仮名書の書ありて、一己の見識をあらはさる。吾子に他家を嗣しむるもこれなるべし。養子辧は、ある儒生著す所にして他姓を嗣ことをにくむ。それをまた辧ぜられたるが此翁の見所也。(追記) 因に記す、此翁高貴の御方々へもしたしく参られしよし。久しく関東にありてのぼりて後、南都一乗院宮へ参られし時賜りし御歌、 ふじの雪都の花のめうつしはさぞなはへなきならの古郷 御返し奉られしがそれはわすれたりと或人かたりぬ。 |