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人物名

人物名松岡恕庵 
人物名読みまつおかじょあん 
場所京都妙心寺実相院(中京区)  京都妙心寺実相院(右京区) 
生年 
没年 

追記
人物名稲若水(稲生若水) 
人物名読み(いのうじゃくすい) 
場所江戸  大阪  京都  京都東山迎称寺 
生年 
没年 
本文

恕庵松岡氏、名は玄達、字は成章、怡顔斎と号す。垂加の神道を学びては真鈴潮翁ともいふ。平安の人、其先は尾張名護屋に出づ。浅井図南子いふ、恕庵先生はもと本草者にあらず、儒家たれども詩経の名物を困しみ、稲生若水にしたがひて本草を三遍見給ひしが、大方暗記して、同じ比、後藤常之進などいへる本草者あれど、其右に出たり。故に人しきりに本草をとひ、終に本業となりしかども、其志にあらずとぞ。博覧、好古、倹素、淳樸の人なること人のしる処也。今其真卒なる二三条を挙ぐ。大きなる倉を二つたて、一つには漢の書、一つには国書を蔵られしほどのことなれども、火桶は深草のすやきを紙にてはり用ゐられし。又男、善吾名は典、字は子勅、号復真。 幼年より絹のたぐひを着せず、袴も夏、冬となく麻にて有ければ、門人たち、あまり見苦しとて、よろしき袴を送りければ先生是を見て、われ仁斎先生の講席に出し時、東涯いまだ幼して先生の側にあられしが、白き木綿の布子、白き木綿の袴也。是をおもへば、善吾は染色衣たるは奢也とて、かのよき袴は着せ給はざりけるとぞ。又ある日、奴僕を呼びて蝋燭の屑をえり出して、是は某、これは誰に取らせよとわかち、すこしかたちあるを皆残し置れけるを、かたはらの人、今奴に蝋燭の屑を給ひしは何事にやと問。先生、鬢つけの為也と答へらる。又南天の木のふとき幹を取出し、人をよびて、是はよき南天なれば、かんざしにけづりて娘どもにとらせよと命ず。同じ比、白銀の調度国禁となりし時、世間、銀の細工ものをあつめ官にさゝげしが、其後又年を経て、しきりに白銀のかんざしをさしたる比、女達の頭を先生みて、先年銀は国禁なりしになどて是をさすぞ、と仰ければ、娘たちかへすこばなく、是は銀にてはなし、箔おこしてこしらへしもの也と答へければ、さはよき細工よ、などて済けるとぞ。又ある年の春、書生おほく具して花見に行けれる途中、瓦もて舟のかたちをつくり、やねのうへに猿のすはりたる花生に、小草の花をいれたる売リものあり。先生是をめでゝ、書生に買せ、僕にもたせてゆくゆく、一町余りにしてはとりて見らるゝ事度々にて、此猿はよく造りたり、など余念なかりけるが、僕がもちたる間ゆく人の袖にかゝりて打わりければ、書生等、心してあとへかへして、さらにもとめさせけるが、此たびはもとのごとくなるものなくて、やねのしたに猿のゐるをもとめ来りける。先生又、下部が手よりとりて見給ひ、こはいかに、いままで猿はやねの上に居たるに、是はたがひたりとあるを、書生等下部の叱られんことをいとひて、いなちがひたることは侍らず、とつよくいひければ、さにやとて、又前のごとく愛し給ふとぞ。是等もて、その人となりをしるべし。蒿蹊云、銀の笄も猿のちがひしも先生しられざるにはあらじ。欺をうけて容るは長者の意ならん。 <蒿蹊云、或時云々、予三熊生書るまゝなるを、後に新安手簡をもて正せる所、台命にて詩経を進講し図をなし木下へ助力を頼まれしも皆白石先生也。これに付て知がたき事は木下の媒にて若水へ尋られ、江戸になきもの、或は唐物などをも京より下され、考なども添られしこと毎々也し、と手簡に見ゆ。三熊いかに見たがへてかくしるしけん、予が校正の足ざるも亦、罪さり所なくこそ。> 因に云、稲生若水、名は宣義、字は彰信、江戸の人なり。若水を通名とせしかども、頭は月代あり、しかも被風を着し両刀を帯たれば、人皆あやしむ。或ル時、台命ありて詩経を講ぜし時、草木鳥獣の、筆におよぶほどは図して献ず。其比、木下順庵も力をあはせられけるとかや。すべて産物を見ること別才ありて他の及ぶ所にあらず。加賀の太守より禄三百石を賜ふ。庶物類纂といふ書千巻を撰み、原本、副本ともに自筆にて書る。原書はいま官府にあり、副本は加賀に有よし。惜らくはいまだ五旬に満ずして逝す。白石先生も交り善かりしかば、およそ五旬ならずして千巻の書を編む人、古今ためしを聞ずと、歎美有しとぞ。蒿蹊按、新安手簡に其説委し。 此余、著す所、結髦居別集、炮灸全書等世に残れり。

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