石庵三宅氏、名は正名、字は実父、万年と号す。平安の人なり。寛文五年正月十九日に生る。兄弟六人有しが中に、弟観瀾名は緝明、字侔陽、俗称九十郎
と此老、殊に学を好む。為リ人ト沈静倹簡にして英敏勇決、稍長じて家産敗亡し、宿債を返して残る金十片有リ。先生、弟に対していふ、残る所纔也といへども、又学を為るに足ると。兄弟案を並べて寝食を忘る。しかもいくほどなく十片の金尽たりしかば、兄弟手を携て東都に遊ぶ。又おもふ所有て、弟観瀾を残して自は京に帰れり。さるに其比讃岐に木邑某といふ人、其名を慕ひて来り、すゝめて国に伴ひしかば、かしこに客居せる事四年、其後また浪花に来りて住み、学風大に行れ、その声海内に噪しく、門弟子、日に月に盛なりしかば、学生等、浪華に学場を設んことをはかり、関東へ訟しに、先生の名もとより台聞に達しければ、即其名をさして学場の地を賜ふ。爰に於て先生を招請すといへども、固辞していはく、君子不ル重則チ不威アラ、われは布衣の賎夫也、如何ぞ棟梁たらんと。門弟子等いふ、然らば先生の節倹を学ぶまじや。棟梁の教授誰か染ざらん。布衣を着て棟梁たらば、其徳いよいよ高かるべし。化育の益大ならん、と度々言を尽して勧るに、辞することを得ず、挙に応ず。しかも纔に三年にして享保十五年七月十六目病に罹て没す。行年六十六。河内神光寺に葬る。生涯布衣より外は衣ず。書は遒勁正鉾にして妙也。故に今に至りても人其隻字を得て至宝とすれども、印信を用ることなし。凡て質素を守る故也。詩文はもとより国歌誹諧をも嗜れしかど、皆意とせず。門に来るものには只人道の理を責、教学の趣を述て、さらに他言をまじへず。婦人は岡田氏にして二男二女を産す。長文太郎、二女ともに先生に先だちて死す。末子才二郎、名は正誼、父の志を継ギ業を受て読書堂を守る。今の今橋の学場なり。
観瀾、弟惣十郎維祺、号佩葦も東都に遊び、水戸侯につかへて早世すとぞ。
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