道瑞下村氏、号泰宇、周防の産とやらん。少年より京師に遊びて、毉は北尾保安に学び、文学は宇都宮由的に問ふ。学なりて近江仁正寺侯に仕ふ。後致仕ヲ同国八幡に棲遅し老を養ふ。常に拘杞を制して茶に代へ、保養これにしくものなしといへり。保養の故にや、心身健にて九十五六まで生存せり。療治も一風あり。病人旦夕にせまるといへども、くすりなしとはいはず、療治は療治也、死は死也といへり。すべて気象強き人にて、自のたてたるむねを変ぜず、故に世の学生に交ることを好まず、他は小児のごとくおもへり。其主とする所、詩文の音律にて、一生古今の詩に双声、畳韻を改め、糸を引を所作とし、遂に詩家音律といふ書を著す。是は梁の沈約が八病を主として、古への詩文には皆此法あり。沈約以前も聖賢の語には自然に音響節奏あり。沈約も亦これによれり。八病は詩に此病を避べしといふことにはあらず、八つのむつかしきことありといふ意にて、堯舜モ其レ猶病焉の病の字のごとし。其法は双声、畳韻偏になる時は音響とゝのはず、奇遇相応じて声律に愜ふ。凡双声、畳韻を急に用たるは調急に、緩く用ひたるは調緩し、緩急の拍子相交り、唇、舌、牙、歯、喉の五音、平、上、去、入の四声織成て、自文釆をなし、限なき響あり。もし唯同祖の字をつらね、唇、舌等の音を専ら用れば、吃語となりて節奏なし。反切はもとより聖賢の言語、詩賦の双声、畳韻等の節奏の為メなれば、是によりて遡れば、数千年前の聖賢の語勢口気宛然としてみゆ。此法によらざれば、門外にありて門内を推計ものにして風調を論ずるに由なし。又楽府、歌曲の類は、かの国にても作者の意にまかせて作れば音律に背によりて、僑声填字といひて、其調に愜ふべき声の限り空囲を作り、其声によりて文字を填る也。惣じて、詞の正しきをもて其心の正敷を可キ知ルなれば、節奏なきは君子の辞にあらずなど、詩書を初メ経書に系を引、双声、畳韻を註し、詩も歴代を掲て、下モ李于鱗、王元美におよぶ。其図甚煩しければこゝには省く。皇朝にても昔は此法正しく菅、江諸家皆此法によらる。三百年前、薩摩の僧文之等も四書に文之点といふものあり。
詩文猶是を用う。近世、唯近体の詩に平仄を用るのみにして、此法を廃していはざれば知ル人なし、など委しくこれを筆し、常の言語にもときて大息せらる。蒿蹊少荘の日、此老の居に咫尺なれども、たゞ文華にのみ意馳て、かゝる緻密の法は聞にも倦み学ざりしを、老来さらに遺書を見て、頗ル後悔の想を生じぬ。この書、其蔵板にして世にあまねからず。此老歿して又いふ人なければ、纔にこゝに其論を挙て、彼志を世にしらしめんとおもへり。
詩家音律 凡例 小引
八病在ル五字ノ内ニ謂フ之ヲ急ト。在ル十字ノ内ニ謂フ之ヲ緩ト。緩急之度謂フ之ヲ節奏ト。節奏也者ハ。其レ作ルノ詩ヲ之本歟。豈啻詩已。凡百ノ散文儷文モ亦皆双声畳韻ナル也耳。而モ今吾邑之士。絶エテ無シ講求スル双声畳韻ヲ者。余甚ダ惜シム焉。故ニ著ハシ玆編ヲ并ニスト凡例ヲ云フ。
泰宇 下村道瑞謹識
(詩家音律 凡例 小引
八病五字ノ内ニ在ル之ヲ急ト謂フ。十字ノ内ニ在ル之ヲ緩ト謂フ。緩急ノ度之ヲ節奏ト謂フ。節奏ハ、其レ詩ヲ作ルノ本歟。豈啻詩ノミナランヤ。凡ソ百ノ散文儷文モ亦皆双声畳韻ナルノミ。而モ今吾が邑ノ士、絶エテ双声畳韻ヲ講求スル者無シ。余甚ダ惜シム。故ニ玆編ヲ著ハシ凡例ヲ并ビニスト云フ。
泰宇 下村道瑞謹識)
沈約が八病も出されしまゝにこゝに挙す。
平頭 上句第一二字与ト下句一二字同ス声ヲ。
蜂腰 第二字不得与第五字同ズルコトヲ声ヲ。
上尾 第五字与十字同声。如キ青青河畔草。欝欝園中ノ柳ノ是也。
鶴膝 第五字不得与第十五字同ズルコトヲ声ヲ。
大韻 如キ声鳴為ルガ韻。上九字不得用ヰ驚頎平栄ノ字ヲ。
小韻 除ク本韻一字ヲ外。九字不得両字同ズルコトヲ韻ヲ。如キ遙条同ズルコトノ韻ヲ也。
正紐 詩病有リ正紐傍紐。謂テ十字ノ内両字双声ヲ為正紐ト。
傍紐 若キモ不ルガ共ニセ一紐ヲ而有ルヲ双声為シ傍紐ト。如シ流六為シ正紐ト流柳為ルガ傍紐ト。
(平頭 上句第一二字、下句一二字ト声ヲ同ス。
蜂腰 第二字、第五字ト声ヲ同ズルコトヲ得ズ。
上尾 第五字、十字ト同声。青青河畔草、欝欝園中ノ柳ノ如キ是也。
鶴膝 第五字、第十五字ト声ヲ同ズルコトヲ得ズ。
大韻 声鳴、韻タルガ如キ、上九字驚頎平栄ノ字ヲ用ヰルコトヲ得ズ。
小韻 本韻一字ヲ除ク外、九字両字韻ヲ同ズルコトヲ得ズ。遙条韻ヲ同ズルコトノ如キ也。
正紐 詩病、正紐傍紐有リ、十字ノ内、両字双声ヲ謂テ正紐トス。
傍紐 一紐ヲ共ニセザルガゴトキモ、双声有ルヲ傍紐トシ、流六正紐トシ、流柳傍紐トスルガ如シ。)
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