[ 日文研トップ ] [ 日文研 データベースの案内 ] [ データベースメニュー ]


[ 人名順 | 登 場順 ]

人物名

人物名 奥田三角 
人物名読み おくださんかく 
場所 伊勢櫛田 
生年  
没年  

本文

伊勢の儒官、奥田三角、名は士亨、字喜甫、蘭汀と号す。又後古稀の齢に及で、公より南山の号を賜ふ。三角は亭の名にして、退隠の後俗称 に用う。小字、宗四郎、後清十郎といふ。其先、越前豊原より出て伊勢に来り、櫛田川の辺に家す。故に其所を直に豊原と称し、累世土着の一名家也。翁幼より 学を好み、同国宇治にあそび、表叔蘋洲山崎家の門人 に寄食し、ものよみすること三四年、蘋洲告ていふ、学者正に天下第一等の人について学ぶべし、今京師に伊藤東涯あり、世に得がたき人とはこれらの人をいふ べし。汝往て学ぶべしと。こゝにおいて十九にして西上し、堀川の塾にあること十余年、諸門生おして上足とす。且講説に長じられしかば、師もこれを許し、屢 代講を命ぜられぬ。廿二にして名物六帖を挍して深ク師の意に叶ふ。しかしより後、編述必専任ぜらるゝとぞ。廿九にして藤堂家の学職に挙られ、職にあること 五十年、四君に歴仕し、優待他に殊に、退隠の後も寵遇甚しく、呼ブに先生をもてし、名を呼玉はざるに至る。性、剛介にして物に屈せず。然も家に在て父母に 順に、兄弟に睦まじく、他に接するに信厚也。凡三年の喪は久しく廃絶し、学士といへども勉得ることかたきを、先生亨保乙卯のとし父の喪にあひ、翌年又師東 涯をうしなひ、心喪を合セ通じて四年、かたく喪をつとめられしなど、其節操を見るべきもの也。経学に力を用ひられしは論なし。博聞強記もまた人の知ル所に して、詩又一家の体をなすといへども、しひて推敲を用ず。人の需に応じて立どころに成ス。文章におきては多年心をとゞめて専ラ簡約を貴び、一篇苟もせず。 詩、文章ともに三角集に具す、識者鑑別すべし。終身抄出をつとめ、八旬に及で猶倦ず。著述はつとめられざりしかども猶数部ありしが、皆一時の戯作にして経 義に及ず。門生あるひは経書の注述をこへば、先師の遺書尽せり。我輩蛇足すべきにあらずとこたふ。又書を能して乞フ者あれば、欣然数十幅を払ふて厭はず。 最モ細楷によし。年古稀に過てなほ蝿頭字を作るに眼鏡を用ず。はた文事のいとま武事をも好み、弓馬の道拙からず、終身心を用られしとぞ。三角 亭記、試馬場のまうけあるにても知べし。 七十七にして寿碣を作り、自ラ其銘を撰む。身後或ルは溢美の言あらんをおそるゝとなり。易ルトキ簀ヲ年八十一。豊原枕山先瑩の側、あらかじめ建る所の墓碣 の下に葬ると云。蒿蹊少年より其名声をきゝ、又近比三角集を見て、ますます惇儒にして風流なるをしる。故に自撰の墓銘したはしく、伊勢に乞しかば、彼門生 野村氏是を写し、かつ親敷見聞する所を録してよせられしにあひ、此伝をあらはし、三角亭記に墓銘をあはせて左に掲ぐ。 三角亭記 余嘗テ於テ後圃中ニ開ク試馬場ヲ。長サハ不及バ五十弓ニ。広サハ僅カニ可シ旋ラス馬ヲ。傍ラ植ユ花卉ヲ。外鑿シ芙蕖溝ヲ。内築ク小堤ヲ。偶記ス俞退翁三角 亭ノ詩ヲ。曰ク。春無ク四面ノ花。夜欠ク一簷ノ雨ヲ。同話録ニ花ヲ為シ韻ト作ル余仁廓ニ。余愛シ其句ヲ。深ク服ス其意ニ。凡ソ天下之花無ク四時無シ五色。 雖ドモ有リト躑躅紫燕称スルモノ四季ト。歳中三タビ開ク耳。余ガ家ノ五色梅分チ浅深紅ヲ足ル数フルニ。何ンゾ索メン墨梅ヲ。何ンゾ貧ラン四面ヲ。竊ニ思フ 三角之為ル物ト。則チ方之半ナリ矣。欠ク盈ヲ之戒無シ以テ加フルコト焉。因テ欲ス傚ヒテ之ニ構ヘント亭ヲ於西北隅ニ。庶クバ乎不ランコトヲ妨ゲ旋ヲ馬焉。 有リテ志未果サ。客歳病ミ眼ヲ折リ足ヲ。不堪ヘ騎乗ニ。遂ニ放チ馬ヲ徹シ調馬埓ヲ。鋤テ為ス菜圃ト。今茲春晩有リ人告ゲテ曰ク。有リ廠材価不満タ一貫文 ニ。盍ゾ安堤上ニ也。余心揺焉。召シテ二老僕ヲ謀ル之ヲ。僉ミナ曰ク。不用ヰ。請フ陪セバ其価ヲ可シ辧矣ズ。日亭午。此レ去ルコト神山ヲ幾里ゾ。春水方ニ 漲ル。編ミ栰ヲ乗ジテ流ニ二人ニシテ而足ルト。余従フ之ニ。薄暮果シテ致ス杉材十余根ヲ於門下ニ。明日召シ匠ヲ構ヘテ之ヲ曰ク。務メテ存シ斧鋸ノ痕ヲ。謹 ミテ勿レ施スコト礱■ヲ。不シテ日ナラ成セト之ヲ。又翌日葺キ茅ヲ。至リテ三日ニ落ス之ヲ。時ニ三月十二日也。掲グ蓬窓子ノ扁ヲ。忽チ 官書至リ。飯シテ于亭ニ帰ル于府ニ。他日心常ニ在リ此亭ニ。七月之望帰リ郷ニ。坐臥シ亭中ニ。仰ギテ看青山ヲ。俯シテ観ル紅劉ヲ。始メテ償フ平生ヲ。因テ 為シテ之ガ記ヲ云フ。 (余嘗テ後圃中ニ於テ試馬場ヲ開ク。長サハ五十弓ニ及バズ、広サハ僅カニ馬ヲ旋ラスベシ。傍ラ花卉ヲ植ユ。外、芙蕖溝ヲ鑿シ、内、小堤ヲ築ク。偶々俞退翁 三角亭ノ詩ヲ記ス。曰ク、春、四面ノ花無ク、夜、一簷ノ雨ヲ欠ク。同話録ニ、花ヲ韻ト為シ余仁廓ニ作ル。余、其ノ句ヲ愛シ、深ク其ノ意ニ服ス。凡ソ天下ノ 花、四時無ク、五色ナシ。躑躅紫燕四季ト称スルモノ有リト雖ドモ、歳中三タビ開クノミ。余ガ家ノ五色梅浅深紅ヲ分チ数フルニ足ル。何ゾ墨梅ヲ索メン、何ゾ 四面ヲ貪ラン。竊ニ思フ、三角ノ物タル、則チ方ノ半ナリ。盈ルヲ欠クノ戒、以テ加フルコト無シ。因テ之ニ傚ヒテ亭ヲ西北隅ニ構ヘント欲ス。庶クバ馬ヲ旋ス ニ妨ゲザランコトヲ。志有リテ未ダ果サズ。客歳眼ヲ病ミ足ヲ折り、騎乗ニ堪ヘズ。遂ニ馬ヲ放チ調馬埒ヲ徹シ、鋤テ菜圃トナス。今弦春晩、人有リ告ゲテ曰 ク、廠材有リ価一貫文二満タズ、盍ゾ堤上二安カザル。余、心揺ク。二老僕ヲ召シテ之ヲ謀ル。僉ナ曰ク、用ヰズ。請フ其ノ価ヲ陪セバ辧ズベシ。日亭午、此レ 神山ヲ去ルコト幾里ゾ。春水方ニ漲ル。栰ヲ編ミ流ニ乗ジテ二人ニシテ足ルト。余之二従フ。薄暮果シテ杉材十余根ヲ門下二致ス。明日、匠ヲ召シ之ヲ構ヘテ日 ク、務メテ斧鋸ノ痕ヲ存シ、謹ミテ礱■ヲ施スコト勿レ。日ナラズシテ之ヲ成セト。又、翌日茅ヲ葺キ、三日ニ至リテ之ヲ落ス。時ニ三月十 二日也。蓬窓子ノ扁ヲ掲グ。忽チ官書至リ、亭ニ飯シテ府ニ帰ル。他日心常ニ此亭ニ在リ。七月ノ望、郷ニ帰リ、亭中ニ坐臥シ、仰ギテ青山ヲ看、俯シテ紅蕖ヲ 観ル。始メテ平生ヲ償フ。因テ之ガ記ヲ為シテ云フ。) 此後、凡百の器玩、三角のものを愛し、文庫すら三角に造られしに至る。一奇事なり。 三角亭詩 桑瓠空ク負ク四方ノ志。三角亭中夢モ亦奇ナリ。忽チ怪ム虫声一面ニ開クヲ。深ク歓ブ月影照スコト多時ナルヲ。人間ノ交際重ンズ謙損ヲ。天道循環警ム満虧 ヲ。窓自ラ不妨ゲ八ノ風ノ至ルヲ。牀頭長ク掛ク退翁ガ詩。 (三角亭詩 桑瓠空ク負ク四方ノ志。三角亭中夢モ亦奇ナリ。忽チ怪ム虫声一面二開クヲ。深ク歓ブ月影照スコト多時ナルヲ。人間ノ交際謙損ヲ重ンズ。天道循環満虧ヲ警 ム。窓自ラ妨ゲズ八風ノ至ルヲ。牀頭長ク掛ク退翁ガ詩。) 又 三角亭中独煎ズ茶ヲ。人ハ言フ封閉縮ンデ如シト蝸ノ。直方ハ難シ処リ下流ノ地。円転何ゾ停メン峻阪ノ沙ヲ。有リ水有リ山常ニ可ナリ月ニ。無ク冬ト無ク夏ト 永ク観ル花ヲ。比年患ヒテ眼ヲ偏ニ嫌フ白ヲ。藍紙粘シテ窓ニ同ジ碧紗ニ。 (又 三角亭中独リ茶ヲ煎ズ。人ハ言フ封閉縮ンデ蝸ノ如シト。直方ハ処リ難シ下流ノ地。円転何ゾ峻阪ノ沙ヲ停メン。水有リ山有リ常ニ月ニ可ナリ。冬ト無ク夏ト無 ク永ク花ヲ観ル。比年眼ヲ患ヒテ偏ニ白ヲ嫌フ。藍紙窓ニ粘シテ碧紗ニ同ジ。) 寿碣銘 奥田士亨、字ハ嘉甫。号ス蘭汀ト。亭ヲ曰フ三角ト。南山ハ古稀ニシテ所ノ賜フ号也。小字宗四。宜休大人ノ季。為リ伯竜渓ノ嗣。服ス嫂堀口氏ノ喪ヲ。十四ニ シテ遊学シ宇治ニ。十九ニシテ上リ京ニ。師トシ事フルコト東涯先生ニ十一年。廿二ニシテ命ジテ挍セシム名物六帖ヲ。深ク叶ヒ師ノ意ニ。爾後編述必ズ専ラ任 ズ焉。廿九ニシテ擢デラレ津府ニ賜フ十口俸ヲ。戊午加フ五口ヲ。甲戌蒙リテ命ヲ挍明史ヲ。半年ニシテ句豆竣フ功ヲ。癸未領ス百廿石ヲ。庚寅東ニ下リ留ルコ ト柳邸ニ九月。壬辰班ス掌鎖ノ右ニ。褒スル学術ヲ也。甲午転ズ中庁ニ。賞スル蓄フルヲ書万巻与ヲ家丁卅員ノ器械也。丙申告ダ老ヲ。尚賜ヒ退俸十口ヲ。隔日 入リテ侍ス。或ハ至ル夜分ニ。所ノ賜フ書画扇巾衣裳至ルマデ襦帯ニ山ノゴトク積ミテ不ズ止ダ等キノミナラ身ニ矣。今茲ニ己亥不幸ニシテ会ヒ嫡士元ガ喪ニ。 忝ク蒙リ両公ノ存問ヲ。仍テ有リ花餈ノ賜。臣庶之家未ダ之ヲ前聞セ也。時ニ歳七十七。先嬪土井氏ニ男アリ。次ヲ曰フ正準ト。冒ス岡部ヲ。三女アリ長ハ配ス 侄土弘ニ。余ハ夭ス。後嬪細江氏。一男アリ曰フ叙典ト冒ス吉村ヲ。内外孫十四人。帰孫七人。五十年来門生踰エ八百ニ。今存ス百数ヲ。身後恐クハ或ハ溢美ア ラント。自ラ撰シテ寿碣ノ銘ヲ曰ク。起リ于田間ニ。升ル中庁ノ直ニ。何ヲ以テ得ル之ヲ。稽古之力。 (寿碣銘 奥田士亨、字ハ嘉甫、蘭汀ト号ス。亭ヲ三角ト曰フ。南山ハ古稀ニシテ賜フ所ノ号也。小字宗四。宜休大人ノ季。伯、竜渓ノ嗣トナリ、嫂堀口氏ノ喪ヲ服ス。十 四ニシテ宇治ニ遊学シ、十九ニシテ京ニ上リ、東涯先生ニ師トシ事フルコト十一年、廿二ニシテ命ジテ名物六帖ヲ挍セシム。深ク師ノ意ニ叶ヒ、爾後編述必ズ専 ラ任ズ。廿九ニシテ津府ニ擢デラレ十口俸ヲ賜フ。戊午五口ヲ加フ。甲戌命ヲ蒙リテ明史ヲ挍シ、半年ニシテ句豆功ヲ竣ヲフ。癸未百廿石ヲ領ス。庚寅東ニ下リ 柳邸ニ留ルコト九月、壬辰掌鎖ノ右二班ス。学術ヲ褒スル也。甲午中庁ニ転ズ。書万巻、家丁卅員ノ器械トヲ蓄フルヲ賞スル也。丙申老ヲ告グ。尚、退俸十口ヲ 賜ヒ、隔日入リテ侍ス。或ハ夜分ニ至ル。賜フ所ノ書画、扇巾、衣裳、襦帯ニ至ルマデ山ノゴトク積ミテ止身ニ等キノミナラズ。今茲ニ己亥不幸ニシテ嫡士元ガ 喪ニ会ヒ、忝ク両公ノ存問ヲ蒙リ、仍テ花餈ノ賜有リ。臣庶ノ家未ダ之ヲ前聞セザル也。時ニ歳七十七。先嬪土井氏二男アリ、次ヲ正準ト曰フ。岡部ヲ冒ス。三 女アリ、長ハ侄士弘ニ配ス。余ハ夭ス。後嬪細江氏、一男アリ叙典ト曰フ。吉村ヲ冒ス。内外孫十四人、帰孫七人、五十年来門生八百ニ踰エ、今、百数ヲ存ス。 身後恐クハ或ハ溢美アラント、自ラ寿碣ノ銘ヲ撰シテ曰ク。田間ニ起リ、中庁ノ直ニ升ル。何ヲ以テ之ヲ得ル、稽古ノカ。)