一柞梨一は江戸の人也。性廉にして家乏しく、書のみ多し。凡ソ世の人事を省キ、外の聞見をいとはず、隠操ある人なり。越前丸岡侯聞し召て、使者をつかはされけれど、固辞してうけず。使者謀りていふ、一つのあばらや有リ、それをたまふべし。又何程の禄を充行るべし。しかれどもかつて勤仕の労をおほせず。たゞ今迄の姿にてあらしむべしとの御事也と。こゝにして丸岡に下りぬ。もとより儒者に用給ふ御心なれば折々はもの問給ふことあり。しかれども一度も出仕といふことはなく五年過しければ、今はとて侯、梨一に儒書の講談を命じ給ふ。おのれも幾とせか恩を蒙りしことなれば辞するに不忍ビ、命に応ぜんとす。されど脇ざしのみにて刀は今になし。いかゞせんといふ。それこそ安きことゝて、其使者の士より佩刀を贈りけり。不羇にして酒落なることすべて此類なり。かゝる意より俳諧を好みて人にもしらる。もとの水といふ著書あり。又ばせをの奥の細道を註したるもあり。俳諧にて交りし洛の蝶夢法師、伊賀の桐雨といへるとゝもに、梨一が所をとひしことありしに、丸岡のそこそこと聞て其あたりに行しが、家もまばらにて、人にとふべくもあらぬ所に、築地の崩れて、犬の通ふ穴明し家有、其穴より覗みれば、庭はえもしれぬ草木繁りて、人げもありやなしやとおもふばかりなるに、俵物など多く積たれば、是さだめて梨一が家なるべしと、つと入て案内を乞しに、はたしてそなりけり。一ル時越前の兵庫といふ所の代官になり、閑田子云、出勤だにもせぬ人の代官になりしとはいぶかし。あるひは止事をえぬことありてしばらく君命に応じけるにや、たづねべし。
秋収を聞ことありしが、其正直無欲なることを百姓大きに感じて、梨一明神と唱へて、其真影を崇、秋ごとには祭れりとぞ。
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