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人物名 |
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本文 |
百井塘雨は通名左右二、京師の人也。其兄は室町の豪富万屋といへるが、家長をして有けるによりて、おもへらく、商家とならば此ごとく富べし、然れどもおよぶべからねば、及ぬことを求んより、我欲する名山勝槩をたのしむにしくはなしとて、金三十片を携へ、にしは薩摩、日向、東は奥羽外が浜のはて迄を窮む。其記事有リといへども稿を脱せず。その中に奇なることは、富士にのぼらんとて道を迷ひ、そこともしらぬ曠野をさまよふこと数日、第四日には気根疲れはて、手足も縮み、一歩も進れねば、とても死ぬべけれど、こゝに死んより、同じくは往来の道に出てこそと、富士権現に祈りけるが、其日もそこに臥シて、明る朝にみれば、夜の間に露おほく降りて、木草の葉にかゝれり。折から咽渇きたれば幸に手を伸て、此露を一ト雫嘗るに、甘き事たとへなし。夫よりかたがたの露を呑々しければ、忽チ精神爽になり、足もかろがろと成しかば、こは神の恵み也とたうとく、又曠野をそこはかとなく行クに、谷のあなたに小家一つ見出したり。うれしくて行んとするに、谷ふかくして道なし。思惟して、そこに竹の有ける、其枝に取付て飛ければ、不思議に恙なくむかふの地にいたりぬ。さてかの一つ家に入て、しかじかのよしをかたり、路を問フ。あるじ驚き、こゝは木樵山がつも通ふ所にあらぬものを、先今夜は休み給へ。明日案内せんと、粥など焼てあたへ、さまざまの物がたりするついで、けさはめづらしく甘露降リたり。めしゝやといふに、さてはとはじめてしりぬ。こゝには折々降ルにやととへば、たまさかにはあることなりといふ。彼崑崙山に甘露ありと聞クを、こゝにもまれまれもふるなれば、富士を仙境といふもむべなりとおぼえし。それより案内を得て巓を極めけるとなん。西遊には霧嶋が嶽の天の逆鉾を見んと、三度までのぼりしかど、硫黄の気に不堪して得いたらずといへり。凡ソ日向わたりは正学の道をいふ人なく、実に辺鄙なれど、また人心の直なるものから、塘雨三綱五常の趣をよりよりに説さとしければ人々信じ、こゝにとゞまること八年、今やうやう文字の事をもいふ人あるは、またく此老の功也とぞ。又はじめ嬰児の手習の手本をもとめしかば、いろはをかきて与ふるに、是は何といふことゝあやしぶ。塘雨もまたあやしくて、こゝは手本の始に何をかきてあたふるぞ、と問へば、なにはづ、浅香山のふた歌也とこたふるに、古風の残れることを感じぬど。此外、奇話もあれど略ス之ヲ。 (追記) 以上、花顛記す。閑田子又いふ。此人京にかへりて後、かの兄、身まかりしかば止事を得ず、万屋にたち入、とかく事を取まかなひし時、其主に説て、よしなき器財を買ことをとゞめ、書をあまた買しむ。又其女の需に応じて、つくしごとの組ミの文を註して自在抄といふものを著せり。予も請れてこれを添削し、跋をもかきたり。おもしろき老人なりしが、おしゞしの春、醍醐の花見にいきて、帰りての夜頓死せり。一生風流をつくしたりといふべし。花顛、其追福に此伝を記すといひしが、これも亦、ほどなく同じみちに趣けるも哀なり。 |