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人物名 |
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本文 |
正因高森氏、号寂嘯、本肥後国阿蘇大宮司三家の内、阿蘇、村上、高森を三家と称す。 高森の孫にして、紀伊国に生れ、医をもて業とす。又仏乗に帰し、いまだ若くして一切経を閲するの望有て、京師に登る道、淀河の舟中にして泉涌寺中、来迎院主に相見して志願を述ぶ。院主感じて、さらば吾院に寓居すべし、と誘れてこゝに留ること三年、終に閲蔵の願を果して後、此等近く、伏見街道本町に居をしめ、専ら医術を施して技妙に至る。其一をいはゞ、大和高取侯の招に応じて至りし時、はや事きれ給ひぬと聞えしに、然はありとも遥々参りしかひに、空しき御体にても一診しまうさんと望みて、診て曰、猶見る所ありと。しひて薬を進めしに忽蘇息し給ふとなん。此類、猶有けん、大に世に行る。又もとより国歌をこのむ。時に、霊元上皇、仙洞に人麿の社を造らせ給んとて、あまねく古像を求させ給ふに、正因蔵せる所の像、阿蘇より伝来せるを奉りしに、甚叡慮に愜ひしをもて、許多金、及び本町の宅疎竹庵の租を免ぜられ、剰医人なるをもて、忝く大己貴命の字の宸翰を賜ふ。終に法眼にさへ進む。且和歌を嗜よし叡聞に達しければ、某ノ卿の伝奏にて自詠二十首を奉るを、甚奇特に思し召て、東蘭亭の号を賜ふ。よりて其書院の名とす。凡生涯の栄誉かくのごとしといへども、身は不犯にして、しかも斎食を持ち、くすりをあたふるにも、鳥獣の肉をもちひ、殺生にあづかることをせず。宝永饑饉の時には勝平散といふ薬を製して病者に施せしなど、善業、人の口にあり。七旬有余にて病なく、自死日を知り、法服を着し端座して逝す。医術の書は其家に伝ふ。一生不犯の人なれば子なく、養子をもて家名を相続す。 和歌集は一旦印行すといへども、火のために亡びたるを、ゆかりの人の書集たるがありて、其中におぼえたるを挙ぐ。
早春 春くれば雪ま雪まに若草の生先見ゆる野辺ののどけさ
尋花 目高くは此川上を尋見んむすべば水の花の香ぞする
山家月 よをいとふ心の外に澄月の影さへ洗ふ山の井の水
嘲ル菊ヲ意を 隠家の花とも見えず此ころのよにもてはやす菊の色々
不シテ久カラ詣イタル道場ニ かずかずの心の関をこえて今法の都の近きをぞしる あまたの中にはよろしきがおほかるべけれども、こゝにとゞむ。 |