幻阿、蝶夢法師は京師の人、寺町の上、阿弥陀寺の子院、帰白院に住す。若き時は頗放蕩なりしかども、俳諧をこのむこと人に過、四方の国
々に行脚して此道を執行す。後洛東岡崎に閑居をしめ、俳諧をもて聞ゆるものから、こゝろざし仏乗に帰す。其大功をいはゞ、天明申の年の火災に、阿弥陀寺焼
失して、なにおふ本尊弘法大師の作といへるも、丈六なるがゆゑに動かし得ず、灰燼となり、はつかに右の御片頬のみ寒灰の中より出たりしを、いたくなげき
て、仏工の妙手をえらみ、浪花の孝伝に托し、許多の金、さまざまのものをさへ贈りて、仏工をよろこばしむれば、仏像円満にとゝのふものとか
や。むかしより倒ありとなん。
此残りしに継て、御首を修せしめ、総身は五条の仏工隆慶に作らしめて、本寺に安置す。又此寺の鐘は、本尊の縁起を鋳つけて名鐘のきこえあるが、幸に烟にも
れしを、時の住持無慙愧の悪僧にて、是をさへ他へ売渡したるを、幻阿さまざまはかりて金を捨て取返されたり。此人なかりせば、本尊も鳴鐘もなのみならまし
と人々称歎せり。是よりさき石山寺に常燈を供せられしこともありき。はいかいの事におきては、粟津のばせを堂を再建して風流をつくす。又ばせをの絵詞伝を
著してこゝの什物とし、其写しを印行して世に弘むるをはじめとし、所々に芭蕉塚を建て其旧跡をしらしむるなど、其徒の称せる業多し。天明の中比にや、もと
住る五升庵の後の空地に泊庵といふものをたてゝ、同志の人をのみつどへ、花月を翫ぶ料とす。しかるにいくほどなく洛中大火の後、こゝをかりて住る友人これ
かれ有て、やうやう住荒したれば、はじめの興も夢と覚て癭瘤のおもひせしが、つひにこぼちて彼帰白院におくり内仏場とす。此泊庵の記は相国寺蕉中長老著し
給ひ、破りてのちに六如上人の添記有リ、今左に掲ぐ。生涯の発句、付合、文章などは印行の書どもにあまたなればこゝに贅せず。久しく病してつひに其冬臘月
廿五日の暁身まかられぬる。齢は六十有四なりき。
泊菴ノ記
幻阿法師不慕ハ栄利ヲ。不驚カ寵辱ニ。所ノ談ズル者清玄。所ノ詠ム者俳諧。性好ミ山水ヲ。探リ名区ヲ攬リ勝槩。足跡幾ンド極ム四海之浜ヲ。而シテ一ニ寓ス
諸レヲ諷詠ニ焉。其居スルヤ于岡崎ニ也。並ビ街巷ニ背ニス山野ヲ。所為聘シテ心目ヲ而寄ス遊暢ヲ。乃チ憑ル神足之通ニ也。近ゴロ更卜ス一宅ヲ。乃チ東距数
百歩。為ニ古法勝寺跡ト。因リテ結ビ団瓢ヲ。分カチ白河ノ水ヲ帯ビ其ノ門ニ。横ニ略彴シテ入ル之ヲ。只尺ノ間頓ニ隔ツ凡境ヲ。南面ハ華頂山ノ紫翠聳出シ列
松ノ之際ニ。東スレバ則チ南禅之楼禅林之殿。正爾与軒楹相当ル。時ニ則チ作ス鐘磬之響ヲ。如意瓜生ノ諸峰邐迤トシテ而北至ル比叡ニ。更ニ開キテ窓ヲ受ク之
ヲ。乃テ黒谷蓊欝トシテ擁ス其前ヲ。使ム四明ヲシテ逈ニ以臨マ焉。至レバ於雪月花樹為スニ之ガ装飾ヲ則チ四時変ジ朝暮換ル。不可カラ勝テ状ス。蕞爾タル一
団瓢ノ席。僅カニ函丈ニシテ而気象百千尽ク在リ几席ノ間ニ。不亦奇ナラ乎ヤ。法師既ニ多シ四方ノ交遊。戸外之屨未ダ免レ雑遝ヲ。則チ今之所営ム唯同調者ニ
シテ而得タリト以テ下スヲ榻ヲ云フ。乃チ謁シテ余ニ謂ヒテ曰ク。某老タリ矣。不復タ従運セ東西ニ。此レ其ノ臥シテ而遊ブ之ニ乎カ。願フニ某ガ所宗トスル厭
ヒ穢ヲ而欣ブヲ浄是誠ニ何ノ心ゾ哉ヤ。師其レ忖度シテ而命ゼヨト之ヲ。余ガ曰ク。有ル是哉。其レ惟レ泊乎カ。夫レ泊トハ也者寄ス身一葦ニ之。上下無ク所定
マル。四維無シ所亜グ。必ズヤ也知リテ其所ヲ止ム而後止ル焉。然レドモ目不得不ルコトヲ視。耳不得不ルコトヲカ聴。彼ノ寒山之鐘。江楓之火モ。亦無クテ所
待ツ而有ル所待ツ者也。経ニ不ル言ハヤ乎。見聞如ク幻翳ノ。三界如シト旅泊ノ。故ニ見テ而翳トス之ヲ。是ヲ謂フ不見之見ト。聞キテ而幻トス之ヲ。是ヲ謂フ
不聞ノ之聞ト。居界ニ出ヅ界ヲ。方便之門其レ在ル茲ニ与カ。君豈所待ツ是舎テンヤ諸ヲ。且ツ夫レ華頂禅林黒谷者皆君ノ所ノ宗トスル宗匠
之跡。非ズ所以ニ羹墻スル于旦暮ニ乎ヤ。昔者吾ガ正覚国師居リ相之三浦ニ。名ヅケテ庵ヲ曰フ泊船ト。聞ク芭蕉翁寓武之深川ニ亦有リ泊船之堂。是猶有ル繋ル
コト乎水ト与ニ船君也。今法師之営非ズシテ水而山。不ズシテ船ニアラ而泊。泊之時義於テ是ニ遠イ矣カナ哉ト。法師曰。善イ哉。請フ記シテ斯言ヲ勿レト忘
ル。
天明丁未十一月 淡海竺常撰
泊菴本ト為ニシテ朋簪ノ而設ク。既ニシテ而以謂ク。樹下塚間非ズ敢テ所ニ望ム。降セバ此ヲ則チ一把之茅猶為有余ト。豈ニ可ケン有ル長物乎ヤト。遂ニ乃チテ
之ヲ移シ於帰白道院ニ。替ヘテ為仏室ト。略無シ顧惜ノ念。於テ是ニ泊菴之ノ為ル泊。名実悆副ス焉。即チ大典禅師所モ命ズル亦タ為得タリト其ノ実ヲ矣。唐詩
有リ之。縦然一夜風吹去ル。只ダ在リト蘆花浅水ノ辺ニ。法師之視ルモ泊菴ヲ殆ンド亦如キ斯ノ夫カ。比スレバ之ヲ平泉之石ニ。賢愚相距何如也。因リテ記シテ
之ヲ以テ附ス前記之後ニ。
寛政癸丑孟冬 六如杜多慈周識
(泊菴ノ記
幻阿法師栄利ヲ慕ハズ、寵辱ニ驚カズ。談ズル所ノ者清玄、詠ム所ノ者俳譜、性山水ヲ好ミ、名区ヲ探リ勝槩ヲ攬リ、足跡幾ンド四海ノ浜ヲ極ム。而シテ一ニ諸
レヲ諷詠ニ寓ス。其ノ岡崎ニ居スルヤ、街巷ニ並ビ山野ヲ背ニス。所為心目ヲ聰シテ遊暢ヲ寄ス。乃チ神足ノ通ニ憑ル也。近ゴロ更ニ一宅ヲトス。乃チ東距数百
歩、古法勝寺跡トス。因リテ団瓢ヲ結ビ、白河ノ水ヲ分カチ、其ノ門ニ帯ビ、横ニ略彴シテ之ヲ入ル。只尺ノ間、頓ニ凡境ヲ隔ツ。南面ハ華頂山ノ紫翠列松ノ際
ニ聳出シ、東スレバ則チ南禅ノ楼、禅林ノ殿、正爾軒楹ト相当ル。時ニ則チ鐘磬ノ響ヲ作ス。如意、瓜生ノ諸峰邐迤トシテ北比叡ニ至ル。更ニ一窓ヲ開キテ之ヲ
受ク。乃チ黒谷蓊欝トシテ其ノ前ヲ擁ス。四明ヲシテ逈ルカニ以テ臨マシム。雪月花樹之ガ装飾ヲ為スニ至レバ、則チ四時変ジ朝暮換ル、勝テ状スベカラズ。蕞
爾タル一囲ノ瓢席、僅カニ函丈ニシテ気象百千尽ク几席ノ間ニ在リ、亦奇ナラズヤ。法師既ニ四方ノ交遊多シ。戸外ノ屨未ダ雑遝ヲ免レズ。則チ今ノ営ム所唯同
調ニシテ以テ榻ヲ下スヲ得タリト云フ。乃チ余ニ謁シテ謂ヒテ曰ク、某老タリ、復東西ニ従運セズ。此レ其ノ臥シテ之ニ遊ブカ。某ガ宗トスル所、穢ヲ厭ヒ浄ヲ
欣ブヲ観フニ、是レ誠ニ何ノ心ゾヤ。師其レ忖度シテ之ヲ命ゼヨト。余ガ曰ク、是有ル哉。其レ惟レ泊カ、夫レ泊トハ身ヲ一葦ニ寄ス、上下定マル所無ク、四維
亜グ所無シ。必ズヤ其ノ止ム所ヲ知リテ後止ル。然レドモ目視ザルコトヲ得ズ、耳聴カザルコトヲ得ズ。彼ノ寒山ノ鐘江楓ノ火モ、亦待ツ所無クテ待ツ所有ル
也。経ニ言ハザルヤ。見聞幻翳ノ如ク三界旅泊ノ如シト。故ニ見テ之ヲ翳トス、是ヲ不見ノ見ト謂フ。聞キテ之ヲ幻トス、是ヲ不聞ノ聞ト謂フ。界ニ
居テ界ヲ出ヅ、方便ノ門其レ茲ニ在ルカ。君豈待ツ所是諸ヲ舎テンヤ。且ツ夫レ華頂、禅林、黒谷ハ、皆君ノ宗トスル所ノ宗匠ノ跡、旦暮ニ
羹墻スル所以ニアラズヤ。昔吾ガ正覚国師相ノ三浦ニ居リ、庵ヲ名ヅケテ泊船ト曰フ。聞ク芭蕉翁武ノ深川ニ寓スルモ、亦泊船ノ堂有リ。是猶水ト船トニ繋ルコ
ト有ル者也。今法師之営、水ニ非ズシテ山、船ニアラズシテ泊、泊ノ時義是ニ於テ遠イカナト、法師曰ク、善イ哉。請フ、斯言ヲ記シテ忘ル勿レト。
天明丁未十一月 淡海竺常撰
泊菴本ト朋簪ノ為ニシテ設ク。既ニシテ以謂ク、樹下塚間敢テ望ム所ニ非ズ。此ヲ降セバ則チ一把ノ茅猶有余トス、豈ニ長物有ルベケンヤト。遂ニ乃チ之ヲ捐テ
帰白道院ニ移シ、替ヘテ仏室トス。略顧惜ノ念無シ。是ニ於テ泊菴ノ泊タル、名実悆副ス。即チ大典禅師命ズル所モ亦其ノ実ヲ得タリトス。唐詩コレ有リ、縦然
一夜風吹キ去ル、只ダ蘆花浅水ノ辺ニ在リト。法師ノ泊菴ヲ視ルモ殆ンド亦斯ノ如キカ。コレラ平泉ノ石ニ比スレバ、賢愚相距タルコトイカン。因リテ之ヲ記シ
テ以テ前記ノ後二附ス。
寛政癸丑孟冬 六如杜多慈周識)
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