古谷久語は伊勢ノ国三重ノ郡松本村の農夫にて、田わざをつとむる間に好みて野史軍記の俗書をさす。
を読、一わたりにして記得し終にわすれず、村中の集会にこれをかたらんことをこふものあれば、乞所の事実を説こと其書に対するごとし。此村、四日市駅に逼たれば、若き時は常に人夫に役せられて旅人の竹輿をも舁たるに、或は奴僕とあなどりて談話せる士人など、いろいろの旧事に委しきを聞ては、大に畏伏せりとぞ。終に泝りて本朝の歴史、及び万葉集なども悉く暗記して語る。凡千歳のいにしへのことも今みるごとく話せる故に、或ルは年経し白狐の翁に托したるにやなども風説せり。著所、南朝略史、又古谷草紙あり。草紙は伊勢国中を巡りて、上古の地理、古寺の廃れたる、及土産の品をも考索して録せり。されば国君の聞に達し、銭を賜ひて賞し給ふ。もと苗氏もさだかならねば、古谷の氏も君侯の賜へる所なりといふ。思ふに久語の名も、時を移して古を語るによりて、人の名付しにやあらん。国の士太夫も是を愛して詩歌をよせ、親しく交る人もあり。七十の時、是等の人謀りて寿碑を建ツ。七十三にして壬子の年歿せりとぞ。又聞、此老捜出せる伊勢の古図、松坂、本居氏の手に落、内宮の文庫に納められしが、此図によりて、太神宮儀式帳の内に鈴どめの杜といふ所のさだかならざりしが分明になりぬ。これは往古の官道にて、勅使参向の所に出たり、是らも一つの功といふべしとなん。彼、古谷草紙にはさだめて此官道古今のたがひも記されたるべし。予も此ころかりて見んとする物から、まづきくまゝをしるす。
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