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人物名

人物名粟田口善輔 
人物名読み 
場所 
生年 
没年 

本文

善輔一作善法又、善浦とも有。 は粟田口に住ム隠者也。其居は土間に炉をひらき、円座を敷て賓、主の座をわかち、十能に炭をすくひてそのまゝ炉に投ず。往来の馬士、驕夫に茶をあたへ物がたりせしめてたのしみ、昼夜のわかちもなき人なり。糧つくれば一瓢をならして人の施を乞ふ。皆其人がらをしりて金銭米布をめぐむに、其ものゝある間ダは家を出ることなし。炉にかくる所、手取釜といふものにて、是にて飯を炊ぎ、又湯をわかして茶を喫す。其湯の沸時は彷彿松濤声、昔日高遠幽邃趣と吟じて独笑す。

手取釜おのれは口がさし出たぞ雑水たくと人にかたるな

と戯れしこともあり。豊太閤そのことを伝きゝ給ひて、其手取釜を得て茶燕せよと利休に命ぜられければ、休すなはちゆきてしかじかの御命の旨を伝ふるに、善輔聞クとひとしく色を損じ、此釜を奉ればあとに代りなし、よしなき釜故にとかく物いはるゝも亦おもひの外なりと、やがて其釜を石に投じて打砕き、

あらむつかしあみだが峰の影法師

とつぶやきたり。蒿蹊按、あみだが峰古歌によめるは東南渋谷なれども、此粟田山にも此名をよびて、享保のころまでは茶毘所ありしにおもへば、南のあみだがみねの下は鳥部野にてもとの葬所なれば、のちに粟田にうつしたるにやあらん。 利休もあきれていはんかたなく、豊太閤は短慮におはしませば、いかゞあらんとおもひ煩へど、すべきやうもなければ、ありのまゝにまうしけるに、かへりてみけしきよく、その善輔は真の道人なり。かれがもてるものを召しは我ひがごとぞとおほせて、そのころ伊勢阿野の津に越後といふ名誉の鋳物師あるに命じて、利休居士が見しまゝに、二つうつさせて、一つは善輔に、かの破たるつぐのひとて賜ひ、一つは御物となる。善輔歿して後、その釜粟田口の良恩寺に収まれり。其図左のごとし。

またその手取釜の添文とてあり。 手取釜并鉤、箱入鎖迄入レ念ヲ到来悦ビ思召候。尚、山中橘内、木下半介可キ申ス也。 十月十一日 太閤御朱印 田中兵部大輔

(追記)

花顚云、田中兵部大輔はその比の諸侯也。越後に御命を伝へて鋳させたる人ならん。是は其時の御使番、山中、木下よりの清書也。別に持たる人の意にて、此善輔が釜の此寺にあるによりて寄附したるならんか、善輔にはあづからざるもの也。彼太閤の御物は或ル大国の侯の御家に伝るとぞ。又細川玄旨法印も、此釜をうつせと阿野越後に仰られしに、御所の思召にてたゞ二つ鋳たることに侍らへば、又同じ形に鋳候はんことは憚ありと辞しければ、理也とてざれ歌をよみて、さらば是を其釜に鋳付よ。これ同じものならぬ証拠也と仰しかば、やがて鋳てまゐらせけるとぞ。其ざれ歌は、

手とり釜うぬが口よりさしいでゝこれは似せじやと人にかたるな、

此釜、今も細川家に伝ふるよし也。又云、もとの手取釜の歌は、或説には堺の一路菴が よみしとも、又道六といふ人のよみしともいへど、此玄旨法印のうつしの戯歌にてみれば、善輔がよみしに疑なかるべし。

蒿蹊評云、善輔茶を翫んで茶匠の窟に不ル落チは陸羽、盧同に勝れり。馬士、驕夫をいとはず茶をあたへ、もの語せしむるは、宇治の亜相に似たり。しかも時の威権に屈せざるの一条は甚難して甚危し。幸にして免たるは天歟、そもそも無我の所ゑ以ン無キ敵歟。

図版