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人物名

人物名 僧 学信 
人物名読み がくしん 
場所 江戸増上寺 京都鹿 ガ谷法然院 
生年  
没年  

本文

学信和尚は伊予の人なるが、其生るゝはじめいとあやし。今治の浄土宗の寺に新亡の婦人を葬しが、其夜赤子の呱々のこゑ頻に聞えければ、 住僧あやしみて声をしるべに尋しに、彼新亡の墓なりしかば、いそぎほりうがたしめて棺をひらき見るに、男児生れ出て有けり。住僧よろこび、こは我授り得し 子なりとて、乳母を付て養ひしに、よく生立て此和尚となりたり。博学多識にして一時の名僧也。よにあやしきまで強記にして精勤又類なし。年わかくして閲蔵 の功を畢り、また弥陀経十万巻をもよみ終れり。書字、作文などの雑伎能は、はじめ翫ぶひまもなかりしかど、中年にいたりては皆頗ル雅賞を得たり。唯世務に は愚にして孩童にもしかざることおほし。ある時、人にかたられしは、吾レわかき時常に地蔵大士を信じて深く二世の悉地を祈しが、世の富貴などいふものは、 人によりて害ともなればあながちに願ふべきにもあらず。さらば此よのことは貧にしてよからんには貧ならしめ、賤にしてよからんには賤ならしめ、とにもかく にもたゞよからんやうにせさせ給へと祈申せしとぞ。和尚体気ゆたかに肥ふとり、寛裕なる人なりけれども、扶宗護法などに臨んでは最勇敢にして、すべて身命 のあることをしらざるが如し。されば、世人には、迂遠なる人也、我慢なる人也など、常に誚りわらはれぬれども聊もかへりみず。年廿余りにして増上寺に有け る比、華厳の覚州、江戸にて唯識述記の講筵を開れしに、和尚も其聴衆に有けるが、或ル時殊に行て謁を乞て、覚州と末那外縁勿字などいふことを論義し、和尚 屈せずしていふ、われもし百日閉関せば述記を講ぜんこと難からじ、座首の講は聞に足らず、とてされり。其後、学州和尚堺にて重て述記を講ぜられし時、其こ とをかたり出て嘆ぜられけり。和尚中年の比、洛東獅谷に住持せられんことを懇請せしに、廬山の遺風をも復び興さばやとおもはれければ、やがて請に応ぜられ しかども、意に愜はぬことのみ多かりければ、さらぬことに托して忽チ寺を退れしを、ある人諫て、夏にして住持し、秋にして退去せられんは余りにかろがろ し、などさりがたく聞えしに、和尚云、我聞ク浄土の荘厳は宝殿逐身ヲ飛とかや。しかも此松径竹関の寺、いかでかわが身を逐ふことをえんと。終にさりて、安 芸の宮じまの光明院にいたる。此地は以八上人のむかしの跡かぐはしく、且山清ク海朗にして観境心すみければ、こゝにとゞまりて溘焉の心ありき。晩年其徳益 高く、其名いよいよきこえて、伊予松山の大守、和尚を請じて、其香華の地、大林寺といふに住持せしめ、兼て国中の僧機をも正さんと思ひ給ひければ、崇敬最 ふかゝりけり。和尚其請に応ぜしより、其士大夫のためには政教資治を賛述し、政に預る人は老荘の学をも常に明らむべしなど申され、又緇門法中の為には戒乗 を兼談じ、勧懲を専らと申、不軌のもの十ニヶ院まで擯斥せられしかば、自他の宗門僧機大に観を改めけり。厳主に悍虜なく、慈母に敗児あり。寛にして容るこ とを要すとも、教は必厳なるべし、と常に申されける。ある時、和尚京にのぼりて、数月不在の間、弟子の尼非法のことありときこえければ、帰寺の後、忽門籍 を除き、法衣を脱却せしめ、門前にして擯斥の法を行へり。余りに厳刻に過たりとて、なだむるものありけれどもきかず。其尼はしかも松山勢要の士の女なりし かども、和尚道義するどく、気象正しくして、権門勢家を避ざること皆此類也き。最モ後に一士人罪を得て獄に下りしを、其罪情憐むべきことありてそれがため に和尚しばしば助命を乞れしが、先侯の帰敬に順じて、今の侯も帰敬は浅からさりしかども、是は政道に預ること也。僧徒のいらふべきにあらずとて、つひに許 しなかりければ、和尚再び大林寺に帰らず、城門を出、たゞちに安芸光明院にかへり退きぬ。人是をそしり笑へども、ものゝ数とせず。先侯の時、一とせ大に旱 して処々に請雨すれども雨ふらず。民の患甚しかりければ、和尚に命じて祈らしむるに、和尚、一七日精誠を凝して無量寿経を読誦せられしに、経 に天下和順の文あり。 その験いちじるく、松山領分を限りて甘雨大にそゝぎければ、人皆蘇息のよろこびをなせり。此事又後にも有て、同じく験をえたりしとぞ。徳行のあまり奇特の ことゞもなほおほく聞えけりとなん。七十有余、老病不食してつひに滅を光明院に唱へらる。臨終の前日かたみにともおもはれけるや、病床に臥ながら護法の二 字を大書して、有志のもの三四輩に遺し給へり。其筆力平生に異ならず。又遺偈も有しとぞ。異香天華の瑞を見て、四遠の道俗三五里の間みな驚きて来りまう で、敬異せずといふものなし。荼毘の灰ことごとく紫色鮮明にして光明映徹せること恰も仏舎利のごとくなる舎利数百顆をえたり。凡和尚の事蹟こゝに尽べから ず。今いさゝか其略を挙るのみ。

(追記)

蒿蹊云、学信和尚の伝は花顚もとより出したるうへに、橘南谿の西遊記に厳島にて聞し話を挙られたるをあはせ、おのれまた和尚に随侍せる 僧衆に聞ク所を附し、是をもて守興和尚に托し、其熟知の旨を加えて一篇を成れんことをもとめたる所如シ此ノ。守興師も亦随従の人なり。 又小松谷、義柳和尚の弟子義諦師に聞所の話、左に掲ぐ。

念四坊といふ遁世者、頗ブル風流の法師にて、行脚に出る時、笈の内の本尊にとて短冊に六字の名号を、義柳上人の染筆を乞てもち居たる。 又其脇に学信和尚の染筆を乞ければ、うた一首上下の句を左右にわかちて書給ふ。

授るもうくるもともになむあみだ仏ケの誓ひへだてなければ。

となん。又同じ時、念四坊、念仏を申さんとすれどもまうす心の発らぬをいかゞせましととひけるに、答へてしめし給ふ法語、 念仏をまうす心のおこりたらば、われも念仏まうさめ、さる心のおこらぬゆゑにまうさぬとはあやまり也。世間出世の善事何事もしひてつとむるにてこそやむこ とを得ぬ場にもいたるなれ、唯しひてつとめよかし、とてかく、

心して引けばこそなれ露ふかき秋の山田にかくるなるこも

和尚頗ルうたをも好み給へば、在京の日、和歌者流の徒にもまみえし人ありし。おのれ其生存の日、厳嶋へ詣しかども、かつてしらず。其光明院といふ寺をだに 聞ざりしはいと残多し。他郷に至りては徳の聞えある人、芸に長じたる人、百工の妙手などはなしや、ととひきゝて、必相見を請よし橘氏の西東遊記にかゝれた るは理りに覚ゆ。