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人物名

人物名 傾城吉野 
人物名読み けいせいよしの 
場所 京都六条三筋町  京都大仏  京都鷹峰常照寺 
生年  
没年  

追記
人物名 灰屋某(灰屋紹益) 
人物名読み はいや(はいやじょうえき) 
場所 京都上京  京都立本 寺 
生年  
没年  
本文

都嶋原の廓によしのといへる名妓あり。容色風姿類なきのみならず、手かぎ、歌よみ、茶、香などをはじめ、凡ソ遊芸に長じぬ。もとより心 たかく、なみなみの衣類器財などは省だにせず。それが着たる広東嶋のうはおそひをよしの広東と名付て、今も賞茶者流の袋物にしてもてなすにてもしるべし。 さればある諸侯、いかなるついでにかまみえ給ひて、いかにもこれがよろこぶべきものをあたへばや、と案じたまひて、小倉色紙のうちに俊成卿のうた、世の中 よ道こそなけれ、といふ歌の四の句、山の中にもと誤りかき給ふが、かへりて、山中の色紙といひ伝へて名物となりたるをとうでゝ贈り給ふ。はたして是は二な くよろこびけると也。よに富る人の色好むは、唯一トたびのあふことも哉、面目になど心をつくせども、引手あまたにていとまなく、はた、おのが心にかなはぬ 人には曾て見えず。こゝに、いとまどしき独ずみの鍛冶あり。東寺の御影供の折に見そめてより、起臥おもかげ身にそひ、露もわすれず。是より其業をなすあた ひ、日々の食料を除ては一銭も他のことに用ず、月日を重てつみたる銀そこばくに成たるを、ふところにし、嶋原の出口に往ていかゞせんとたゝずみてありける 時、是が使ふ女のわらはこれを禿と通称す。 二人出来たるを、誰とはしらねどうちまねきて、此名妓にたいめすべきやうをとひはかりしかば、大キにわらひてやがて走り帰り、よにをかしきことこそあれ、 いとも浅ましくやつれたる男が、吾太夫の君時の上首を通称す。 にまみえたし、と申はとて、手打たゝき笑ふを聞とがめて、人をやりて其よしをつばらにとはしめ、とし月あまたおもひをこがせしようを聞て、其日のまらうど にしかじかと語リて、しばしのいとまを乞、ある家をかたらひて酒さかななどてうじてもてなしぬ。其日の客は京にてきこえたる富豪灰屋三郎兵衛といひたるも のにて、若けれども物の情をわきまへしものなれば、此上はたゞその男の心ゆく斗リもてなせよとねもごろにいひやりぬ。さて、よしのが身をけだかくもてなす にも似ず、見るかげもなきものゝ志を憐がたぐひなくすさうなることゝ、日比よりおもひまさりて、其座にて家あるじにかたらひ、かれが身のしろ千金をあたへ てわがものとするにきはめぬ。かくて明の日桂川に身を投し者ありしが、一通の遺書あり。とし比のおもひをはるけて、今は世におもふことなければ、かく身を 捨る也とかけり、何ごとゝもしられざりしが、此鍛冶男なりけるとかや。希有のことゝいふべし。かくて三郎兵衛はよし野を別屋にかくしすえて、愛しけるを、 父聞つけて、いとあるまじきこと、わきて又なく名高きものをしかするは世のきこえも憚あり、と怒りて、勘当しけり。されども思ひかはしてまどしきよをへて もうれへとせず。此時に及びて彼山中の色紙は売たりとぞ。千切や与三右衛門といふもの買しが、今はある諸侯の家蔵となるとなん。 或ル日、灰やの父某、ものへ行たる時、俄に雨ふり出たれば、僕をかへして雨具をとり来らしむる間、とある家の軒にたゝずみたれば、内よりいとうつくしくけ だかき女出きたりて、僕をまたせ給はんほどは是へいらせ給へ、わびしき住家ながら御茶一つ参らせん、と奥へ請じて、折ふし釜の湯のにえたればうす茶をもて なしぬ。あるじもあらず召つかふ人も見えざるに、いやしからぬすまゐもてなしの心あるにおどろきしが、其日、本阿弥光悦にまみえて、いとあやしきこと、よ もへんぐゑにてはあらじ、など聞エたれば、それこそわぬしのむすこの住ミ所、その女はかのよし野也、よもにくからじ、今は勘当ゆるし給へ、と勧たれば、父 も心とけて、其詞にしたがひたりとぞ。よしの嶋原にありし日、ある客舎へこれを揚屋と通称す。 一人の僧きたりて、よしのとやらんいふ女一ト目見たしといふ。あるじ頭をふりて、よしのは名妓也。かろがろしく見給ふべきにあらず。殊にさる御身にては似 げなし、とあらあらしくいへども、僧きかず、たゞ見るべし、とうごかねば、もてあましてせんかたなく、かくと告たれば、何とかおもひけん。ついきたりて、 いざおくへおはしませ、といざなふを、僧は立ながらつくづくと見て、よく見せたり、今は用なし、はやかへるべし、たゞし是をみるには一百銭の銀入べし、と 人いへり。さらば是を、とて首にかけたる財布よりとうでゝ其家あるじにあたふ。主ジ笑ひて、是斗の事に何の価をかうけ侍らん、とかへしたれば、さては人が われを欺し也とて、又首にかけて出られぬ。よしのふしぎに覚えて、密に人をつけて其帰る所を見せ、其名をもきかしむるに、鷹峰の檀上にて学匠のきこえあ る、日径上人といへるにて、彼銀は人のいふまゝに信心の旦那にかりて携へられしなりき。よしのふかく信仰して、こと更に文を贈り、小袖、金子などを施し て、今よりは帰依の者に成侍らん。何にてもともしからんものは心置ず仰給へとて、是より後はしばしば音信しが、灰屋にていくほどなく身まかりし後、ある 人、此僧の事を告しかば、即鷹峰檀上にはふむりて、今もよしの塚とて有となん。

(追記)

因に云、灰や三郎兵衛も風流の男にて、うたをもよみたり。後には薙髪して浄慶といへり。佐野氏にて子孫今もあり。其うたの中に、 むさしのゝ草はみながら置露の月をわけゆく秋の旅人。置露にとありしを、うへなき御ンあたりの改め下されし、と或ル人かたりぬ。