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人物名

人物名僧 卍山 
人物名読みまんざん 
場所備後  加賀大乗寺  加賀永平寺 
生年 
没年 

追記
人物名僧 光慶(公慶) 
人物名読みこうけい(こうけい) 
場所丹後宮津  奈良東大寺 
生年 
没年 
人物名僧 月舟 
人物名読みげっしゅう 
場所肥前武雄  加賀大乗寺  山城禅定寺 
生年 
没年 
本文

卍山和尚は備後の人也。幼して家産をいとひ、戯にも仏に仕へ礼拝をなす。性、敏悟亮達、習はずして経文を誦し、学ばずして詩文を作る。父母其心にまかせて月舟和尚に投じて出家せしむ。十三歳の時、亡父の墓をまつりて家をいづる時、母氏、手を抱て曰、汝ガ大寺に主せんことを願はず。宗旨を励ときかばうれしからまし、かまへて勿レ忘ル、と示さるゝを生涯の亀鑑とし給ふとぞ。十九歳の時、武蔵の雲堂寺にあり。ある時、月舟和尚外に出給ひて独座止静の間、其寺帰依の檀越に三左衛門といふもの、三とせ以前に死しが忽然として来り、師を拝して法問す。師も心を尽してしめし聞え給ひしかば、よろこび謝して去ル。少年より其徳かくのごとし。其後、東大寺の公慶上人、檗宗の鉄眼和尚など親しく交給ひしが、寛文四年の秋、三師同じく会して物語の時、師云フ、大願を発さゞるは菩薩の魔事也、と大般若にみゆ、しかれば各位大願を発し給んや否と。鉄眼和尚曰、誠然リ。吾も亦願心あり。一切経を彫刻して壁山に納め、永く世に広めんと思ふと。公慶上人曰、我は南都大仏殿を造立せんことをおもふと。師曰、我もとより大願有。宗門の伝法の要惣て一師の印証による也。然るに近世宗風頽れて法弟を以て嗣とすること祖意にあらず。誓て古に復せんとおもへりと。二師是をきゝ、拍掌し、吾等が願心は大なれども水至れば渠となるごとく猶易し。師の願は倒に嶮峻をのぼるがごとく難しとも難しと。礼拝して去ル。師、従来此復古を心とし、宗祖道元禅師の像前にむかひ、心願を述て袈裟を漬し給ふ。かくて五十六歳、加賀大乗寺より退て、山城、宇治田原の禅定寺にうつり、林中坐禅のついで、霊芝の形自然に観音の像を現するを得て、別に思ひあたり給ふことあれば、深く信じていよいよ復古の心を激せらる。其後、摂津国住吉の興禅寺にうつり給へども、又月舟和尚の命により禅定寺にかへりすみ、五十九歳の春、猶彼願もならざれば、洛北鷹峰に源光庵を縛して隠居し、唯天の時に委ね給ふ。されども元禄十三年、関左に飛錫の時、途中の口号にも、 咸ク自リ拇腓至テ股ニ晦シ。将キテ労スルヲ頬舌ヲ動カス心灰ヲ。 只期ス山沢互ヒニ通ズルコトヲ気ヲ。同ジク是以テ虚ヲ受ク物ノ来ルヲ。 (咸ク拇腓自リ股ニ至リテ晦シ、頬舌ヲ労スルヲ将ヰテ心灰ヲ動カス。 只期ス山沢互ヒニ気ヲ通ズルコトヲ。同ジク是虚ヲ以テ物ノ来ルヲ受ク。) など、しばらくも願心を忘れ給ふことなし。終に東叡山公辧法親王の挙によりて、曹洞家の諸大寺に台命ありて願心成就し、流弊を禁じられ古に復る。法親王、殊に其風を慕ひ給ふによりて也。是元禄十七年八月七日のことにて、はじめ大願を誓はれしより、四十年にして全ク成る。此後、自復古道人ととなへられ、清人董愛山も復古禅林の額を贈れり。正徳五年乙未、世寿八旬にして源光庵に遷化し給ふ。閩中、鄭任鑰が贈る碑文、略して石に鐫て彼寺に建つ。

(追記)

花顚云、鉄眼和尚の願は、初より十八年を経て天和元年辛酉大蔵経彫刻成り、黄檗山の蔵となる。其事は、前編和尚の伝に具す。公慶上人は河内の人にして南都東大寺竜松院に住す。此東大寺大仏殿は、天平勝宝四年聖武天皇の勅願にて建立ましましけるを、四百三十二年を経て高倉院治承四年十二月廿八日、平重衡の兵火によりて失ふ。後養和元年醍醐寺の俊仍坊重源上人、大勧進主として後白川院、鎌倉右幕下に勅し給ひ、建久六年再び就、同じき三月十二日主上行幸、右幕下も参詣あり。其後三百七十三年を経て、永禄十年十月十日、松永弾正久秀が兵火に又焼失す。此時、御首も地に落たるを、大和福住の処士山田道安といふ画の妙手、多く財宝を出して仏頂を鋳、籠に入て引キ上、継奉たれども、伽藍の興立には及ばず。蒿蹊曰、元禄九年貝原先生の記にも、野中に立給ふと書れたり。 こゝに此上人、大願心を興して貞享帝の勅を奉じ、宝永五年六月廿六日成就す。大檀那薩摩の太守にて、曼荼羅壇、什器、舎利塔等をも供せらる。これ又希有の大興立なり。三師の志願通計四十五年にして、各成就を遂られしもたうときことにこそ。

因にいふ、月舟和尚は世に知る所の高僧也。いまだ幼き時、母に携へられて其師のもとに行、出家の約をなす。其後、母義の機を織られける前に物おもはしき顔して立給ふを、母、何ごとありてかゝるぞ、といひ給へば、吾口惜き事して僧にならんと約したり。同じくは武士にならん物を、といはれしに、母義涕泣して持たる梭にて打、汝たまたま仏に誓ひ、いくばくもなく心変じたるや、と責らるゝに、心変たるにはあらず、思ふに出家は一人の成仏也、吾レもし武士となりて時をえ、天下の政をとらば、天下の人をみな成仏させんものを、と答給ひしと也。其機如此ノし。されば終に高僧ともなり給へりき。一旦、隠元禅師帰化の時、天下の禅林眼を新にし、済家、洞門をいはず、彼徒となる人多かりしに、月舟和尚独臂を掲げて吾宗を扶持し給ひ、其いさほし後世におよべりとかや。されば其下に出る知識、唯卍山和尚のみならず、これかれ聞ふる人々有とぞ。