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人物名 |
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本文 |
赤穂の先主、浅野侯の家臣、堀部弥兵衛金丸が女を幸といふ。安兵衛武庸を養ひてこれに娶せんとせし間、国亡び復讐の挙に及び、父金丸、夫武庸共に自刃を賜へる事状はよの知る所也。時に幸女、母に伴ひ彼挙の志願に諸国の寺社に詣て、明る年の冬、伊勢松坂にして事遂たりといふことをきゝ、よろこびながら京にのぼりて後、父子ともに死を賜へるよしをも聞はてぬ。さて幸女、伯父の僧江戸某の寺にありしを尋行て、尼にならんと願ひけれども、其僧もたゞ人にはあらず。あすともかくもせんとて、此夜は死者を沐浴せさする所に入レて臥しめ試るに、江戸にては旅客多ければ、大やう死者を寺へ送りて寺にて沐浴し棺に納ること故、いづれにも其場所をまうく。 露斗おそるゝけはひなく、心よくいねければ、其器にあたれりとて、戒授け妙海と名づけて、法のわざを教へぬ。其後泉岳寺は故侯及ビ父夫の墓所なれば、其傍にかたばかりの庵を結びて、義士のあとをねもごろにとぶらひけるが、猶故侯の家の絶ぬるを深く歎きて、官に訴ふること数多たびなりければ、後にはふたゝび訴出なんには遠島にさすらへしめんとまで聞え給ふに、猶しひて訴ふるまゝ、すでに罪に落んとせしを、ある御方の恵みをもて許されを蒙りし。ひたぶるに訴しこと是まで二十五度に及ベりとぞ。終に事遂ざることをしりて、せめての志に、彼墓のもとに常燈を排げしかば、故侯の所縁ある諸侯より油の料のみならず、米、花、菓の類ひまであたへ給へれば、ともしきこともなきに、折々は盗のために奪るゝといへども、終にさるけしきみせず、布施多ければ貧しきものを賑して、おのれは絹のたぐひを身にまとはず、生涯其常燈を守りをれり。ある人、何にても物書てたまへ、と紙をとりでたれば、吾幼より一日も安スきことなくて、手ならふ業もしらざりつるに、過しとし米字の齢なればとて、人の求めによりて、米叶の二字をならへり、それを書てまゐらせんとて、あやしき筆のとりざましてかきつけあたへしと也。其年九十なり。明のとし病でめでたく終りをとれりとぞ。 (追記) 蒿蹊曰、我党の人、繁雅評シテ曰、幸女忠信の志操たとふべきかたなきはかぞいろにしたがふ心のする所なれば、孝もまた全し。忠孝のこゝろ誠に深きより、行へるさまなべて女のなすべきわざとも思はれず。四十六の義士にもなどかおとるべき。誰か其操をほめざらん、誰か其行ひに恥ざらむ。 さちといへど身にはさちなき人の名のちとせの後も朽せぬぞさち と戯歌す。 |