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人物名 |
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本文 |
近江蒲生郡安土に、新六といへる貧農あり。予がもとにありし僕が兄也。其妹とゝもに九旬に及ぶ父に孝ある聞えありて、領主より大和郡山 賜にあづかれり。其折とりあへず、予が八幡の家に来て告しかば、たいめして、いかなることをなせしととひつるに、いとふしぎに侍り。いまだ孝といふものゝすべきやうをだにしり侍らず。唯とし老たる人なれば、心に逆はぬやうにと思ひ侍らふばかりなるに、かく賞し給はるはこゝろ得ずながら、何にもあれうれしさに、たのむ所の御寺と、此御もとへは、とりあへず告参らするにて侍ふといひき。そのさま露も言を飾るにはあらず、おもふまゝをふつゝかにいひたるなりき。他日その里の人にとへば、此親常に檀寺に詣る事を喜ぶに、さのみ遠からねど、九十の翁なれば行歩かなはず。それを日毎に竹輿にのせて、妹とゝもに舁て、心のまゝに詣しむ。湯を浴する時は、おとゞひ抱きかゝへて浴せしむ。何をといひたてゝ希有なりといふべきことはなけれど、暇なき身にてかくあつかふなん、及ぶべきことにはあらず。唯其身はさも思はぬさまなりといひき。予がもとに使しものは此前死して年月もやゝつもりたれど、昔わすれず時々に来とぶらひしかば、この折もかくとみに告たる也。忠臣は孝子の門にもとむ、といふもおもいしられ侍り。されば彼告たりし時、予も端布をあたへよろこびをのべ、またかれがこゝろ得やすかるやうに、 うらやまし親につかへてまことある人ぞとよにもあふぐほまれは と、うちおもふままゝ書つけてやりき。 |