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人物名

人物名佐々木志津摩女(佐々木照元) 
人物名読みささきしづまのむすめ(ささきしょうげん) 
場所大阪  大阪浜村墓地 
生年 
没年 

本文

名高き書家佐々木志津摩が女は、高倉家、粟津信濃之介といへる人に嫁して、二十余年睦じくて過しけるが、夫病ミてみづから限りとおぼえし時いへらく、我なからん後は、世わたらひのたづきもなかるべし。さりとて、尼などにさまかへてあさましく落ぶれ給んは口をしかるべし。やうやうさだ過給ふ齢にはあれども、さるべきえにしもなかるべきかは、いづかたへもふたゝびとつぎて、やすらに過し給んことこそ、草葉のかげにても心安く侍らん、とかなしうかたらへば、つまは涙せきあへずながらこたへて、な憂へたまひそ、今迄はかくとも聞え侍らねど、おのれ幼より父の物書クことを教へ給ひしを、おろおろ学び置たれば、身ひとつ過し侍らんことは、ともかうもして苦しきには及ばじといへば、よにうれしげにて終りぬ。其後、貞操を守り、父が氏を名乗リ、照元、字ハ由也とて、能書の聞え有しかば、宝鏡寺の尼宮などへも御手本召れ、今の世にもその書るものもてはやしぬ。

(追記)

思孝云、大かたの女は、いさゝかの伎ありても是にほこるを、かくめでたき手をもちながら、年比むつびし中にも知られざるばかりつゝしめるは、難しといふべし。此一事をもて其余の正しきこともしられぬ。父、志津摩が誡教へしほどもおもはれぬ。予が画の道を人に教るにも、此心もちゐをふかくいましむれば、大かたはそれにてもやみぬ。まいて女の芸は、かゝる不幸の時のためとおもふべし。然らざれば不貞の端となるべし。もろこしの趙文が嬉好子が印を逆しまに押たるも、げにさることに侍り。

蒿蹊云、昔紫式部は、いとけなきより、其才秀て、父もをのこならざるをうらみける程なりしかども、文よむことを召シまつはすものにもつゝみて、一チといふ文字をだにしらぬものゝさまにて過グし、上東門院に史記を教へ参らするなども、いたく忍びける趣、其日記に見えたり。同じよに清少納言が、ざえがり口がしこくて、をとこをものともせず、大進生昌といへる博士をさいなみけるなどは、今おもふにもにくげにて、後に落ぶれけるなどきくにも親しむ人もなかりけるにや、とさへはかられぬ。男も此女房などにおよぶべき才は、昔今稀なるべきだに、猶かうおもはるゝものを、まいて並々の女などいみじくともものゝかずかは。唯あれどもなきがごとくすてふ教をおもふべくこそ。因におもひ出しことは、おのれまだ壮なりしころ、中京に或ル家のひとりむすめ、文よみ歌よむことを好ミけるが、親聟どりして、家を継せける時、其聟は無下にむくつけくて、すぎはひのことより外はしらぬ人なりしかば、此女も年比の嗜をすてゝわすれたるごとくにもてなしけるを、いかにととふ人有しかば、ひそかにこたへて、他より来る夫なれば、よろづにつけてあなづらはしくもてなされんとや疑ふべき。まいて文雅のことなどは心高くおもはれんもうるさくて、といひしとなん。此用意たうとむべし。