下京に治良兵衛といへる者、為リ人ト正直にして、仮初にもいつはりをいはず。子一人持たりしが、十三歳の比、隣リの銭をいさゝか取て来ることありければ、勘当せんことを催せども、十五未満のものは庁にも取上給はぬならひなれば、せんかたなく思ひ煩ふ間ダに、大坂の人来りたりしに、かくと語りければ、さらばわれにえさせよといひて引つれかへりぬ。其あくる年、妻もうせければ、つらつらおもへらく、まづしくてなまじひに小家をもつ故に、時有リて人の物をも借事あり。人の物をかりては一日も心安からずと、家具残らず売払て、わづかの借財をそれぞれにかへし、名をも要介と改て、上京のある寺へやとひ人となりて行しが、かく正直なるものなれば、寺のまかなひとしけり。やうやう年老六十になりしかば、いつまで人につかへて有べき。家をもち手脚をのばしてこゝろよく臥たるこそよからめと、勧る人あるにより、其事をはかる間、ふと思ひよりて、此年までいまだ江戸を見ず、一目見てかへり、其後ともかくもたのみ参らせん、といひて、少しの路費などたくはへもちて旅立。草津の駅まで行キて宿り、朝とく出て、目川といふ里にて、京に大なる火有と噂とりどりなれば、引かへし京に帰りてみれば、一面の紅火世界也。是天明八年申正月晦日の大火也。
おのがありし寺も早跡なく焼うせたれば、いかにともせんすべなく、丸太町の河原に暫彳てありしに、もとより相識人の畳、戸、障子などこゝに運ぶにあひて、其雑具をまもる事をたのまれて居たるに、頓て若き男走り来て、えもいはずきらびやかなる箱の大なるに、真紅の綱かけて結びたるを携へ、しばしたのみ参らすよしいひて走り去ル。其男何か懐より小サきもの落せしを見し故、行てみれば金也。拾ひ上て夫レをもあづかりける。其日もあけの日もそこにくらして、火もやうやう静ぬれば、戸、障子の主より人をおこせて運びぬるが、其箱も金もとりにきたらず、誰ともしらねば、さだめて煙にかこまれて死やしけん、とせんかたなく覚えて、先金の包をときて所書もや、とみれどそれはなし。されどすこし心当の名見えしかば、もしやと尋ね行しに、其所の金にてありしかば、さは此箱も其家の物にてあらんといへれど、それはしらぬよしにて、彼金の謝礼に金五両参らせんと出しけれど、かつてうけず。其代りには此箱のぬししるゝまでは宿かし給へとて、そこに有ながら、人の行来多き所にかたげてありきしに、三日といふに、黒谷門前にてある侍見とがめて、其箱はいづくよりいづくへ持行ぞといふ。さてこそとうれしく、われ河原にて此箱をたのまれて預りしが、其人誰ともしらず。返し所なきにわびて、かく持ありき尋給ふ人をまちし也。内のものをさし給へ、あはゞかへし申さんといふ。中のものはえしらず、まづはわが殿へ来り給へとて伴ひしが、やごとなき御方也。此殿の称号、又男のありし寺、かの金をかへせし家の名など、憚りて記さず。
さて奥より小折紙にて、其品々を書出し給へるが、金銀をのべたる葛屋の香炉、銀の茶碗、一角の獅々の形したる墨台、大小刀の七所拵の金物二タ通、古鏡三つ、壇道斎が持たる硯など、これかれの品物、凡五十余品也。誠にたがふ所なしとて返し奉れば、御褒美の品、御衣など迄かづけ給りしかど、固く辞してうけ奉らず。所はいづこの者ぞ、と尋給へば、しかじかのよし申シ、此御箱さへ返し奉れば、明日にも江戸へ罷立候はんよしを申す。さらば某ノ侯のもとへ着ケよとて御消息をたまふ。其御文をもちて下り、其邸に尋よりけるに、かのよしをもこまごまと仰ありしかば、やがて休息所を賜ひぬ。其日、青侍一人つくづくと要介が顔を見るもの有しが、夜に及びて、ひそかに其休息所に来り、若シ以前は下京におはして治良兵衛殿とは申さゞりしか、といふ。要介、いかにもしかり、いかにしておのれがむかしの名所をしらせ給ふやととふ。其事にて侍ふ、おのれは幼名七之助にて、十三の時浪花へやり給ふ後も、かしこの若者と心を合せ、さまざまあしきことをのみせしかば、かの所にも住佗たる比、堺の辺に東雪といへる僧、此地に下りたまふ供にやとはれて下りけるが、道すがらのやどりやどりにて、さまざまの物語に、身の上をも明し侍りしかば、心を尽して御教訓にあづかり、其後、心を改め、此御家へ参りても十七年に及び、今は不肖ながら侍になり、御おぼえも大かたならず候に付ても、唯明暮二タ親の御事のみ心に掛り、神仏に祈りしが、四年のさき主の御用にて京へのぼり侍し時、下京の住給ひしあたりを尋ねしかども、御ゆくへしられず。残多キながら、日数限有て罷下りしが、はからずもふたゝびめぐり逢奉ることのうれしさよとて、涙せきあへず、明の日は侯にもかくとしらせ奉りしかば、親子ともめしつかふべきよし仰ありて、父は厨の長になど仰有しを、京にも約クせしことあれば、かへりのぼり度よしを申して、とかくせしほどに疝を病みて医療残る所なく、もとよりあたゝかに着、口にかなふ食を喰ひなど、孝養せられて、つひにこゝにて終れり。彼子が立身故に家名もたしかに残れり。此家名も憚りてこゝにもらしぬ。
為リ人ト正直淳朴にて、彼箱を返し奉り、其報ひをも辞し申せしにより、はからぬ邸に参り、捨たる子にめぐりあひ、残る所なく介抱せられて身まかれり。もし京にて病たらば、災後の家もさだかならぬ時にて、親族もなく、いか斗の侘しさならんに、正直の徳忽チあらはれたりといふべし。
(追記)
花顚因にいふ、此天明壬申歳の大火、正月晦日朔日、両日、洛中洛外あまねく焼亡せるは、ためしまれなることなり。これは予雨月庵の記といふものに録し、又諸家の記録も多ければこゝにはもらしぬ。閑田子も亦、かぐつちのあらびといふ筆記せしを、何ものかかすめとりて、他の語をもまじへて俗文にうつし、花紅葉都噺とかいへるものを印行せり。其ころ諸家、和漢の文章此災をしるせるもの多し。
されども平日心得置べき火災の備へを記して、人のためにす。
○柳骨折の比よきに、れんじゃくをかけて、笈のごとく仕立るものを用意し置べし。大家には数あるべし。小家にても一つはあるべし。急火といふ時、物をいれて背に負べきため也。或人、蚊帳を袋にして衾夜着の類を入て持しが、門につかへてくるしむうち、火近くなりしかば、捨てにげたり。又車長持といふもの便なるに似たれども、宝永大火の時に辻々にせきあひ、老人女子などそれに隔られあやまちするもの、死たるものも多かりしとぞ。凡大きなる器はかへりて益なく障り多し。
○予がしたしき人、銅にて作りし三つ套の鍋、木碗、磁器、酒器、箸などを片荷とし、味噌、塩、醤油、米、酒などを又片荷にしたるものを作り、担厨と名づけて、春秋、山野遊行に携へ興ぜしが、此大火に東山に遁れてあるときゝて行訪ひしが、此たびは此担厨にて十七人心よく凌たりと話せり。是は不意に用をなせるものなれども、変は計るべからぬものなれば、乏からぬ人はかうようの備へも有たきものなり。
○火にあひては倉より外にたのむものなし。然るに倉に火の入ルは大やう下の石垣焼て、其気、内の柱につたふ故なり。石垣はひきくし、ぬりごめにするがよしと見ゆ。又倉を閉る時釣瓶車繩などを口に入て閉べし。若開きて火ある時、速に水を汲べきため也。凡ソ火さへ鎮まらば頓に戸を開べし。久しき時は火気こもりて内より焼出す也。閑田子云、此大火に二三日、四五日をへて倉焼出し所多し。是京師の人、火事にうとければなり。江戸にては居宅焼はつればそのまゝ倉にかゝり、先、戸をすこし開き水をうちこみ、漸々にひらくよし也。江戸は火早き所ゆゑ、人々馴て倉をやくこと稀也。足駄一足持て遁るべし。足駄なれば少しの火をも踏べく、釘のたぐひにあしを損ることもなし。
閑田子またついでにいふ。急火に倉の窓の目ぬりする土なくば、塀をくづして其土をもてぬるべし。又倉なき人は雑具の携べからざるものは、地に置て、其上へ塀を覆ひ置て遁べし。大かた焼ず。時にあたりて此働をせし人ありしと、昔相識ル老人かたられし。手近きことも変にあたりては心づかぬもの也。治に居て乱をわすれずといふごとく、つねに心がけあるべきものなり。
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