熊代彦之進、初は神代と云、後改む。
名は斐、字は淇膽、号は繍紅、世間俗名をいはず、熊斐をもてしらる。肥前長崎の小訳官にて、為リ人ト胆気ありて俠者也。清人沈南蘋に画を学び世に名高し。一時台命を蒙り虎を画くに、折しも蛮人虎を持来りしかば、紙筆を携へ虎の檻ちかく居たりしに、虎脆りて頭を挙ず。はたらくけしきを見ばやと思ふによしなければ、みづから竹にて虎をたたくに、やがて頭を擡ぐ。見る人皆大きに懼れて走り去リ、あたりに人なくなりたるに、斐独自若として其さまをうつせり。其逃さりたる人かたらく、虎頭を擡る時、其眼のうへより丸き光りもの出て、人を追かくるやうにおぼえて堪ざりしに、斐が大胆不敵いふべからず、と舌をふるひしとなん。又或人配幅を斐にたのみけるが、三とせをへて筆を染ざればまちかねて、もし画給らば、息女の長じ給ふを一人こなたより、万とゝのへてさるべき所へ嫁せしめまうさんといふ。斐は家貧しく彼人は富たれば、画をのぞむことせちなるあまりにかくいひたる也。さるに斐大きにいかりて、おのれもとより画工にあらず。職は訳官なり。画を書て女を嫁せしめたりといはれて面目あらんや、とたゞちに其絹をかへしたりとぞ。又権門より席画を望みてまねかれし時、あらかじめ聞知たる人我も我もと紙を携へ、酒肴をとゝのへて待居たるに、午後、斐来たりて先酒のみ、筆硯を出して朽墨など取まかなひながら眠り、やがて打倒れて高鼾す。見る人あきれて皆帰りたる後に眼をさまして、手水などして、又酒をのみ時をうつして其日はかへりぬ。其明の日また行てきのふのごとくす。かくて五日が間たゞ同じさまにて、はつかに鶏の画をなせり。招きたるぬしはよしなきことに客あつかひしてあぐみけれど、なかばに辞するもいかゞにて、日比に及びしといへりとかや。斐もひそかにいふ、かばかりの画は日に十枚は書べけれど、むつかしくせざれば頻にもとむるがうたてくて、こらしめたるなりとぞ。
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