醴泉宇野氏、名元章、字成憲、通名長左衛門、近江守山駅の人。若きより学を好みて博聞強記也。はじめは詩を作らず、一旦手を下すに及びては、凡ならず。且ツ書は趙子昂を学びて一画一点といへども其法によらずといふことなし。故に宮筠圃についで人是を称す。然れども為人曠達不拘にして、家産衰ふるをもてあるひは郷党のために誚を得ることあり。豪飲にして談笑の声四隣をおどろかす。しばしば京師に往来して交遊多く奇話も多き人也。今十二を挙グ。江村北海通名伝左衛門
東行のついで其門を訪れしに、日暮に薄り、雨も頻にふり出しぬ。まづさし入て纔に寒温の言終り、頓て投宿のことをも乞んとおもひしに、主人忽チ見えず。客いかにともせんかたなく、起もはした居るもはしたにておもひ煩ける間、雨ますますに盆をうつすがごとくなるに、門外より主人の声して、今帰たり、さぞつれづれにおはさん、といふにおどろきてみれば、簑笠を着、手に網を携て入来たり、一献を勧めんにさかななければ、ちかき川の魚をとり来れりといへり。又在京の日は三条橋東にありて粟田宮へも講を奉りしに、ある時、門人望月立三なる人のもとにて古島伯子なる老医に対面す。伯子卒に一百銭を出して酒を買ひ、有あふ枯魚やうのものにて献酬におよぶ。然るに其明のあした、とく礼服をつけて出らるゝを、宮へ参らるゝにやとおぼえしに、程なく帰りて、伯子のもとへ謝礼に行たりといふ。こはことごとしきことかな。といぶかれば、いな、彼人は吾門生にあらず、旧交にもあらず、故なくして吾が好む酒を勧めらる、厚く謝せずはあるべからず、といふ。其所行大むね此たぐひ也。又をりをり膳所侯へも参らるゝに、一時、近侍あはて騒ぐ所へ行かゝりぬ。今しかじかのことにて手討し給んの趣なり。先生しらぬふりにて、罷出て紛らはし給はゞ事平なんといふ。ぜひなくふとおまへに出たれば、侯もさすがにさまあしとやおぼしけん、白刃をかくし室におさめ給ふ。それもしらぬものゝさまにて、今参る道の湖上にて詩一首つかうまつりたれば申上ん、とてゆくりなくまかり出侍ふ、とはいひけれど実には詩もなければ、俄に一句々々綴りて申出しけるまに、侯も怒とけて、こゝろよく物がたらひ給ひけるとぞ。これらは意勇壮に、詩も達者なる徳也。疾病なる時、同国蒲生郡羽子田といふ所守山より今の道六里ばかりやあらん。
に久祥庵といへる医をまねきて胗せしむ。此医、蔵書家にて頗文字もある人なれば、病者いふ、予年来老荘を嗜むがために心志を労することなし。又数年淫事を断、腎気は定て健なるべしと。医頷て、誠にしかり、追手搦手の守りはよけれど、いかゞはせん城中兵粮尽たり。城中は脾に充べし、救がたしといへりし。平生杯中の物のみならず、魚肉、菓餅の類までしきりに喫する人にてありしかば理に覚ゆ。六十にたらずして此たび終られし。著述多けれども皆稿を脱ぜず、をしむべし。其詩集も家に有とぞ。今おのれがためによせられし作を掲ぐ。
田園風月ノ夜。黎杖忽チ相ヒ迎フ。
燈ハ照ラス親朋ノ面。樹ハ伝フ喜鵠ノ声。
酒ハイ聊酬ムクヒ厚意ニ。談ハ重ネテ結ブ芳盟ヲ。
此坐賓与主。何ゾ曾テ惹俗情ヲ
'右予訪フ時、席上ノ作。
(田園風月ノ夜、黎杖忽チ相ヒ迎フ。
燈ハ照ラス親朋ノ面、樹ハ伝フ喜鵲ノ声。
酒ハ聊カ厚意ニ酬ヒ、談ハ重ネテ芳盟ヲ結ブ。
此ノ坐賓ト主ト、何ゾ曾テ俗情ヲ惹カン。
右、予訪フ時、席上ノ作。)
隠就衡門昼尚関。柴桑ノ幽趣画図ノ間。
黄花襄テ露ニ香将ニ散ラント。碧柳無クシテ風条可シ攀。
印綬一朝甘ンジ二棄擲ヲ。琴書百歳老フ清閑ニ。
世人但説ク陶公ノ酔。気象由来万仞ノ山。
右依リテ予ガ需ムルニ題ス陶靖節之画図ニ。
(隠就ツテ衡門昼尚関ス、柴桑ノ幽趣画図ノ間。
黄花露二嚢テ香将ニ散ラントス、碧柳風無クシテ条攀ヅベシ。
印綬一朝棄擲ヲ甘ソジ、琴書百歳清閑二老フ。
世人但説ク陶公ノ酔、気象由来万仞ノ山。
右、予が需ムルニ依リテ陶靖節ノ画図二題ス。)
附、此門人の人うちに京師粟田に望月立三といふ医有リ。もと職を業とせしが、志を発して学問し医になりたり。為リ人ト無我にして医療の暇には風雅を翫び、ことには狂歌、狂句などすべて戯言をよろこぶ。学を好むのあまり今岡、山城といふ謡曲の文義を講ずるに名をえたる男、学術もありけれど、放蕩無頼の酒徒の許をもとひて物をとふ。時々金銭をもとむれどもそれをもいとはず。坐する所もなき陋室にゆきゝするなど其気象しるべし。生涯妻を携ず、かりにも青楼妓館にのぼらず、凡女色に触たることなし。或友人、妻を娶ることを勧めて、子もし病たる時介抱の人は妻にしくものなしといふ。立三笑ひて、吾病ときはよし、もし彼が病たるときは吾労をいかゞ、とこたへしに、又いふべきやうなかりしとぞ。惜らくは四十三歳にて身まかりしが、一奇人といふにたれり。子なければ門生の人に祐見といへるが其家を嗣り。
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