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人物名

人物名 木下長嘯子 
人物名読み きのしたちょうしょうし 
場所 若狭小浜 
生年  
没年  

本文

長嘯子は、木下肥後守家定従二位法印 の嫡男、少将若狭守勝俊。一旦豊臣を賜ふ。政所殿の甥也。伏見の城にあられしかども、思ふ所ありて京に至り、政所殿の守護し給ふ。或説に、伏 見の城を守らんの約有て大坂よりうつりたまひしかども、鳥井氏のために疑れて退き給ふともいふ。又異性に荷担するの義ならざるをおもひてさりたまふともい ふ。無勇を誚るは大に非なりとぞ。 然るに世のさまかはりて所領にも離れ、洛東霊山に閑居し、長嘯子また天哉翁といふ。思考云、東山隠遁は三十歳の時にして、慶長五年といふ。あ るひは四年ともいへり。挙白集を考るに、祖母をいたむ詞に、慶長三年仲秋十三日と記して少将勝俊と有。同じ六年の記には長嘯子と書れたれば、隠遁は四年、 五年の間にはたがはず。 其所のさまは、彼東ノ山家ノ記、及び、朝ぼらけの記、石枕ノ記などに記されて、共に挙白集中に編り。挙白堂を本居の名とし、半日、独笑、寄亭等をかまへ、 又待必楼には月をまち、松洞台、鳥羽観に眺望を極め、歌仙堂をまうけては六々の歌仙の図像をかけつらねなど、風流をつくして、幽栖とこそいへ、ひろく山 谷、林園をしめられたるは、長嘯橋をわたり行ほど百尺あまりと書給ふにもしられて、さすがに国主の名残なるべし。尊貴には九条相国道房公をはじめ参らせ月 卿雲客、および其世聞名の人々風流のちなみにとひ給ふが多し。しかるにいかなるゆゑにかこゝをすてゝ西山小塩にかくれ給ふ。其東山を出給ふに、是 寛永十七年のころとかや。

生る日の宿の烟ぞ先絶るつひの薪の身はのこれども

此うたによりておもへば、財ともしく此山荘もさゝへがたくなり給ひしにや。

蒿蹊按、政所殿かくれ給ひし後、やうやう衰もておはせしにや。或説に、十五万石に封ぜんの公命ありしかども、再仕の志を断て隠操を全し 給ふといへり。此説につきていはゞ、東シ山家の記のうちに、陶淵明をさして晋徴士と書給ふは、綱目の筆法をとりて自己の志にたぐへられしにやあらん。され ども稲葉家におくられしことばには、

あやしの身の上をさへかけまくもかしこき玉の台にきこえあげてんとならし

、事はおふのうらなし、なりもならずも、たれありて底ひなき此情を、口に嘗腹に味はゝざらめかも、とてうたには、

契置し露のかごとをかけてのみいなばの山のまつとたのまん。

とあり、此外にもあやしと覚ゆることども見ゆ。かくては趙子昂が党といはまほしきを、姑此翁のために嘲りを解ば、箕子は殷紂の庶兄にして周のために洪範を 述ぶ。はた、大雅、文王の詩に、 商之孫子其麗不億。上帝既ニ命ジテ侯于周服。(商之孫子其ノ麗億ノミナラズ。上帝既二命ジテ周服二侯タリ。) といふもの歟、論定は識者に委ぬ。

小塩山は勝持寺、俗にはなの寺といふがかたはら也。其住侶の僧、忠海のよしみによるとなん。此庵のさまも西シ山家ノ記に見ゆ。さきの東 にくらべてはさゝやかにありけんかし。今も其旧地土出屏をかこみて残れり。後瀬山と題せられし記に、

後瀬山のち住やども椎が本など落ぶれて数ならぬ身ぞ

とみゆるも哀也。やよいざ桜といふもの今もかしこにてとなふるが、これも記にみゆ。

山ふかくすめる心は花ぞしるやよいざ桜ものがたりせん、

壁に耳つくとやらんいへるやうに、里の子どもいかで聞とりけん、やよいざ桜とうたひのゝしりて、やがて名とするもいとをかしと有。延陀丸のもとより貞 徳翁のことなり。 とて、

とにかくに月は浮世にすまじとや山より出てやまにいるらむ

かへし、

こゝもまたすみこそやかね大原やあこがれ出しふるさとの山

又、

われもいつのあらましかなふ山里にしめえてぞみる窓の月かげ

などうつり住給ふ比なるべし。こゝは都遠ければとひよる人もまれにや、門人公軌のもとへとて、

小しほ山柴折くべてわぶとだにこたへんものを問人はなし

中々にとはれしほどの山里は人もまたれて淋しかりつる

こゝにてのうたども、さきの東山にてのうたどもあまた、所につけよみ給ふをしるさまほしけれど、事しげゝれは挙白集にゆだねて省きぬ。終給ふは慶安二年十 月にて、辞世の詞有。

王公といへども浅ましき人間の煩ひをばまぬかれず。すべて身のうまれ出ざらんにはしかじ。まして賤しく貧しからんはいふにもたらず。さ れば死はめでたきもの也。ふたゝび彼故郷へ立かへりて、始もなく終もなき楽しびをうる。此たのしみを深く悟らざるともがらかへりていたみ歎く、おろかなら ずや。

露の身の消てもきえぬ置所草葉の外に又もありけり、

あと枕もしらずやみふせりて、口に出るをふと書つくる。人わらふべきことなりかし。遺言のまゝに一木の松のもとに葬る。東山高台寺にも墓有、豊巨氏の故 也。

思孝云、此翁の霊山の歌仙堂を住阿弥の内に是のみありしとぞ。 双林寺門前に移して大雅堂を建るは、池大雅が歿後、其門人等はかれり。惜しむべきの甚しき也。翁、彼歌仙を彫付給ふも、末のよに伝へまほしくてなどある を、蒿蹊云、東山家記のうちに曰、色どりかけるたぐひは多かれど、ふり行まゝに絵のかたちきえ、文字の墨付うせておぼつかなきかたあれば、末 のよにもつたへまほしくて、数九枚にさだめ、板一つに四人づつ彫入、歌仙堂をなしてなげしの上に、おのおのこれをかけつらねたりと。然れども其額は所在を 失し、唯、堂のみ残りし也。 其志空しきのみか、大雅も亦生前謙遜篤実の人なりしに、かく己がために一旧跡をうしなひ、称を改るをこゝろよしとせんや。門人の私いたむべし。此 堂六畳、楼もまた六畳にて、六々三十六の表にやといへり。 又曰、元政上人は竹三竿をなきあとのしるしとし給ふ。此翁は松一もと也。おのれも人がましけれどうらやましく、去年死んとせし比、友がきに契て、さくら一 本を印になし、からは売茶翁に傚て折骨にし給れと遺言しつれど、おぼえずながらへて、此稿を編ものなり。華顚子が遺意かくのごとくなれば、命果の後親しき 人々志を遂しむること、はじめに記すがごとし。おのれもまた此稿を刪補していさゝか掛剣の意に擬ふるものは、彼三めぐりにあたれる寛政八辰のとしの秋也。

老樵 閑田子 蒿蹊

図版