尚斎三宅氏、名重固、通名丹治といふ。山崎闇斎先生の門人にして、為人剛毅、経学を任とす。はじめ阿部侯に仕へて世子の傳となる。世子忍びて花柳街に遊ぶことを憂て、しばしば諫むれども用られず。その近侍二人も此人の門生也。是はた諫を入れども用られぬのみならず、花街に誘るゝ時々あれば、義にあらずとして終に亡命す。こゝにおいて丹治もまた亡命せんことをはかりて、一室に禁錮せらる。さればはじめは自殺せんとおもへりしかど、よく思惟するに益なし。昔の聖賢も憂いにあたりて著述ありし。吾もこれに傚んとおもふに、紙筆を与へざればせんかたなし。からうじて釘の折たるを拾得て、さて風寒に犯され、、鼻涕出るよしをいひて、紙を多く乞、彼釘もて身を傷り、血を墨とし、葭の折たるを噛て筆とし、易説を草す。三百枚に及べり。後にゆるされて京師に登りしかども、尚、三都の住ゐを禁ぜられしかば吉田を氏とし、尚斎を名として隠れ住しに、終に禁も解て本の姓名に復せり。或年妖怪ある家と知ながら居をトしに、其妖止ミたりとぞ。厚腸おもふべし。たゞし妖怪ある家と知ながら住しは中行に過たり。孔夫子の已甚をしたまはぬをこそ法則とはすべけれと、閑散余録に評せるは宜なり。
○尚斎の内人、その徳尚斎にも勝れりとかや。尚斎禁錮せらるゝ時、母堂と子二人を婦人に托して、金弐拾片を与へ、母堂の奉養懇につとむべきよしを命ず。後三年を経て放たれし時、相まみえて挙家安全を喜ぶとき、婦人彼金を出して尚斎に返す。尚斎大に怒て、こは何事ぞ、如ク此ノならば母君は窮し給ひしこと如何ばかりならん。汝不孝の罪いふべからず、と罵るに婦人徐に答て、母君の奉養は心の及ぶ限リ尽し侍ぬ。唯我身は人のために雇となりてせざる所なく、其価をもて仕へ奉りし也。此金はかく禁を許されたまはん時の用に返し申さんとたくはへぬ。とらはれとなり給ひては、さこそ苦しうおはしまさんに、妻子の身として安くあらんものかはと思ひて、吾等三人は、冬、綿の衣を身につけず、夏、蚊帳を室にたれず、かゝれば母御の御為にともしきことなかりし、と語りしかば、尚斎も大に感じて其労を謝したりしとぞ。
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