僧鉄眼、諱光、肥後国本願寺末下の寺に生れ、既に妻もありしが、其宗徒、不徳无才の人も、寺格により上位に居ることを甘心せず、黄檗山にのぼり木庵禅師に従ふ。其妻なる人、尋登しかども、対面せざるをはかりて、黄檗門前に旅宿して、師の出るを窺ふに、或日果して出たるを、しひていざなひければ、止事をえず伴ひて故国へ帰り、其郷まで入しが、ぬけて上途し、又黄檗に至る。法を嗣し後、摂津国難波村瑞竜寺を建立せり。世人今猶、鉄眼をもて其寺を称す。一切経の蔵板を思ひたちて勧進せしに、其料金集れるころ、天下大に餓しかば、師憐みて、件の金を不残ヲ施し、又如ク前ノ勧進せるに、数年ならず又集リたるが、再び五穀不熟にて餓死多ければ、此たびも此金を施行に尽せり。されども徳の至りにや、第三回の勧進にて、蔵経の印刻成就して、其経を頒つ所の代金を、本寺より已下、一宗の寺々に配ること今に於て同じ。同宗に錦袋円といふ薬をうるも同じ。勧学寮より一宗に金を頒。
此師仏学深く、説法能辮にて、俗間を化度すること多けれども、生涯建立門にかゝり、自の腕力十分ならずといひて、吾法嗣をたてず、法弟宝洲和尚に寺を附属す。是又他のかたき所なり。宝洲も仏学に長じて徳行ありとぞ。
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