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人物名

人物名貝原益軒 
人物名読みかいばらえきけん 
場所京都、荒津金竜寺  荒津金竜寺 
生年 
没年 

本文

益軒貝原氏、諱篤信、字子誠、通名久兵衛、祖父より以来筑前福岡侯の臣にして、先生は父寛斎の季子也。邦君三世に仕へて儒学教授となる。君命によりしばしば京師往来し、専程朱の学を講ず。其見は慎思録、自娯集に見ゆ。その学博く和漢に亙れること、等輩尠しといへども、性甚謙にして、只身の及ざることを恐れ、名に近づく事を喜ばず。常に言、吾人に長たることなし、但恭黙道を思ふのみと。もとより愛シ人ヲ済物ヲをもて要とせる故に、其著所の書多く平仮名に記して、通俗のため教ること丁寧反復す。家道、養生、初学の諸訓、大和俗訓、楽訓などは尚さもありなん。鄙事記のごとき、日用の細務にまでも及ぶは、近世諸儒、唯自己の学力を示して、梨棗を費すものと、相去る事天淵なるべし。はた太史公が名山大川を探るに似て、足跡諸国にあまねく、其国の名寄をはじめ、東海、岐岨、日光の紀行、有馬入湯の案内、大和巡、諸州巡の類ひを著されしも、自の詩文章に及ばず、唯旅客の助とせらる。年積るに従ひ、侯家の礼遇弥厚く、累に采地を加へらる。元禄庚辰歳七十一、老を告て事を致すといへども、尚月俸を賜ひて、其老を優にす。正徳甲午八月廿七日家に卒す。時に歳八十五。子なきゆゑに、其の兄、存斎の次子重春をとりて家を嗣しむ。先生の年譜は元禄九年まで、姪好古撰む。好古今年卒せるゆゑに、十年より終に及て、姪可久次て撰む。墓誌は門人竹田定直録す。其銘ニ曰、 恭黙思ヒ道ヲ。極メ精ヲ造イタル微ニ。愛スルヲ物為シ務ト。事ヘテ天ニ不欺カ。韜蔵シテ増顕ハレ。謙遜シテ愈輝ク。遺訓存シ策ヲ。後学永ク依ル。 (恭黙道ヲ思ヒ、精ヲ極メ微二造ル。物ヲ愛スルヲ務トナシ、天二事ヘテ欺カズ。韜蔵シテ増顕ハレ、謙遜シテ愈輝ク。遺訓策ヲ存シ、後学永ク依ル。) 此銘三十余字の間、よく先生を尽せりとおぼしきがゆゑにこゝに挙ぐ。生涯著書百余種に及ぶもめづらしといふべし。書名繁多なるが故にこゝには略す。

或人の話にいふ。先生帰国の海路にて、同船数輩、各姓名をとひきくにも及ばず、何となき物がたりどもをして日を重ねしに、其中一人の若き男、人々に対して経書を講ず。先生例の恭々しく黙して是を聴て、一言是非を論ぜず。船着岸して各はじめて其の郷里をあかし、再会を契て別るゝに臨み、先生も、吾は貝原久兵衛と申ものなり、と名のらるゝを聞て、彼若き男大きに恥おそれて、速ににげさりしとなん。伝には見えぬことなれども、其為リ人トの一端を見るべし。

○因に記す。姪好古は益軒の兄楽軒の子、通名市之進と称す。著す所、和事始、漢事始、日本歳時記、諺草の類、其体裁全先生のごとし。先生に後れてながらへば、其志を嗣人なるべきを、をしむに堪たり。此人の号、損軒と称るよし、人はいへるを、予此ごろ先生の染筆を得たるが、是先生の書林柳枝軒より出て、疑しき物にあらず。然るに損軒七十有五書とありて、印中の文字、上は貝原篤信、下は子誠の印也。おもふに易の損益の卦により、表裏の軒号とせられしにや。かゝれば好古の号といへるは、伝聞の誤歟。たゞし其軒をわかちて好古に譲られて後、自の号とせるもしるべからず。其郷人に正べくこそ。

貞享元禄の前後、儒学の名家多く、奇行奇話も又尠からねども、今は唯、藤樹、益軒の二先生をあげて、徳行の巻の噛矢とす。次に桃水、無能の二和尚を挙るもまた同例なり。彼を取、是を捨るにはあらず。