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人物名

人物名寺井玄渓 
人物名読みてらいげんけい 
場所播磨赤穂藩  京都東山長楽寺 
生年 
没年 

本文

寺井玄渓は、其父、本多侯政利に仕ふ。其国除して処士となれる後、玄渓京師に居て医を業とす。元禄十三庚辰歳、始て浅野侯長矩に仕へ、医をもて江戸に侍り。明年春、侯、吉良氏に傷をもて、自尽を賜ひ、国除んとする日、衆とゝもに赤穂に至り、遂に退て京師に還る。後日、義挙の事起るに及びて、諸士と倶に参画あづからずといふことなし。共に東行せんとせるに及て、良雄大石氏 しひてとゞむるよしは、八月六日の手書にみゆ。且三宅観瀾の復讎録にも出たり。良雄の書の大意は、医の任異なり。任異なるをもて行を倶にせば、われより駈催の誚あらんことを憚る。しかじ、留りて後事を理せよ。其身命をいとひて留るにはあらずなど、丁寧に言を尽す。観瀾の記には、君臣の義、異なることなしといへども、仕る日あさく、且医人は衆のためにしらるゝをもて、歩を動さば必人あやしまん、といふをもてとゞむともいへり。観瀾もまた玄渓の知己なれば、定て其説を聞て記す所なるべし。玄渓こゝにおいて其言に従ひとゞまるといへども、息、玄達をもて東行せしめ、諸士の病を護らしむ。復讎のこと遂て、其月廿六日、江戸を発し京に還る。其厚を見るべし。玄渓後又諸国の招辟ありといへども、並に不応ゼ。正徳元年病て京師に終る。凡此挙、四十六士の事は人皆しれり。此人のことにおきては伝ざるをもて、こゝに其義信のひとしきを著す。観瀾と交、殊に善キも、理義の間にくらからざる故なるべし。

(追記)

予私におもふことあり。礼ノ、檀弓に工尹商陽楚人也。 陳弃疾と呉ノ師を追時、弃疾にいはれて敵を射ル。一人を斃して弓を韔にせんとするを商陽が仁、人を傷ルに忍びざるなり。 尚勧められて又二人を斃す。一人を斃すごとに、其目を揜て、その御をとゞめていはく、朝には不坐、燕にはあづからず、朝に坐し、燕に預ルは大夫殿上を許されしをいふ。商陽は士なれば、あづからずといふ。 三人を殺す、亦反命するに足レりと。孔子曰、殺ス人ヲ之中有リ礼とみゆ。其官卑ければ、仕る所もまた是に応ずべければ、其大夫にあらざるをもて自ことばとす。しかれば良雄、玄渓が東行を留るもの当れり。又義士の中、三村包常次郎左衛門といふ。 は纔に厨下の小吏として、其主姓名をもしらざるべきほどの者なれば、同志の諸士、あるひは財を貧がためならんと疑しかども、始終志を変ぜす。其禄を食ては其難に死すべしとおもへるなるべし。是も商陽がいふ所、孔夫子の礼ありと宣へるをもて見れば、厚に過るともいふべけれど、此挙、高禄の世臣といへども、免レて恥なきもの多き間に、如キ此ノは、有がたしといふべし。予此記をよむごとに包常が志を憐がために、因にしるす。