[ 日文研トップ ] [ 日文研 データベースの案内 ] [ データベースメニュー ]


[ 人名順 | 登 場順 ]

人物名

人物名 小野寺秀和妻 
人物名読み  
場所  
生年  
没年  

追記
人物名 小野寺秀和姉  
人物名読み  
場所  
生年  
没年  
本文

赤穂義士、小野寺十内秀和妻丹子は、灰方氏の女也。義気風雅倶に其夫の行に配して、ことにむつまじかりける旨は、秀和よりおくれる数通 の書にみえたり。初、赤穂の難に馳下たる時、かしこより、同姓十兵衛へ贈れる書に、   老母妻にも此志は不申聞エ候。様子にてさとりたることもしらず候。中略 女にて聞てもさのみさわぐまじきおぼえ有リ之候間、被レ仰聞カサ下さるべく候。

と有。又その明年復讎のため東行してのち、極月十二日妻へ贈る文にも、   万一如何様の難義かゝり来りしとても、見ぐるしきやうにはしなし被レ申サまじく候。又何事もなき世の中にて候はゞ、猶以いかやう にも渡世めさるべく候。心の働きおはしますと覚え候ゆゑ、中々心安く存、今更おもひ残すこともなくて、心よくうち立侯まゝ、そこもとにもせめての本望とお もひ給ひ候へかし。

又二月三日の文にも、   そもじも安穏にも有まじき歟。さ侍らはゞ、かねてかくごのこと、取乱し給ふまじきと心安く覚え候。

などのごとき、前後の詞に、其人がらしらる。もとより此催の心づかひ多き中にも、書かはされし趣にて、其風雅みゆ。中にも極月十二日の 文に、   此方のうた、とりわき相坂の歌哀のよし、よく聞給ふとぞんじ候。そこもとの歌さてさて感じ入候。涙せきあへず、人の見るめをおも ひ、まことに涙をのむといふ心にて、幾度か吟じ候。おくのかたまさり可ク申ス候。是につきても必々歌御捨なくて、たえずよみ申さるべく候。

とあるなど哀にやさしくこそ。復讎のことおこりて後、此婦人のよめるうたは、秀和の返事に感じ入と見えしも其外も伝はらず。平生によめ りしは、夫婦ともにうたの師とせし金勝慶安のゆかりの人もてる直筆の写を見しに、数首あるが中、すこしこゝに書出づ。

なき人の墓に詣し言書ありて、

私按、此亡人は秀和の母義にやとおぼし。

きのふまで問ばこたへしことのはに聞こそかふれ松の下風

はる風を題して、

咲そむる外山の桜匂ひきて人おどろかすはるの朝かぜ

磐瀬てふ名所の題にて、

くれて行秋といはせの山風にもみぢかつちる音のさびしさ

などよろしとおぼゆ。其兄藤兵衛は、同家に仕ながら義に与せず、はた後難を懼る故にや、秀和に通ぜず。其弟喜兵衛、他家に仕て江戸にありしを、秀和とはれ しかども、兄藤兵衛より不通のよしいひおくりしとて、是もたいめせぬよし、秀和、妻室への文に書て、   ぜひもなきお兄ごたちとぞんじ侯。かやうの心にては、此方のなりゆきにて、そもじ殿もかまはぬにてあるべく、弥便もなく、一分の 働にての渡世、太義千万にて候。

などみえたり。邶風柏舟の詩に、亦兄弟あれどもよるべからず、しばらくこゝに住て愬れば、彼が怒に逢、といへるもおもひよせられてあは れなり。かゝりしかば、秀和、同息秀富、幸右衛門といふ。 自尽を賜へる後、おもひかねてや、数日食を断て身まかるといへり。墓は平安本国寺の塔頭了覚院にありて、梅心院妙薫日性信女、元禄十六癸未六月十八日と刻 す。鬼禄には法名のうへに、

妻や子のまつらんものをいそがまし何か此よにおもひ置べき、

と辞世のうたを書、自滅と記す。然れば刃をもて死せるにや。

○因に記す。秀和姉も、同義士大高源吾が母なり。是も義あり賢なりとしられて、源吾よりの文に、   我々どもの我々といふは弟九十郎も義盟の人なれば也。 親、妻子に、御たゝり御座候ても力及不申サ候。万一さやうのことになり申候はゞ、かねて仰られ候通、何分にも上よりの御下知の通、じんじやうに御覚悟なさ れ候べく候。御はやまり候て、御身を我と御あやまち被成サ候御事など、くれぐれ有まじき御事にて御ざ候まゝ、必々左様御心得可ク被成サ候。よの常の女のご とくに彼是と御歎きの色も見えさせられ、愚におはしまし候はゞ、如何斗きのどくにて心もひかれ候はんや、さすがつねづねの御かくごほど御座なされ候て、思 召切、かへりてけなげなる御勧にもあづかり候事、さてさて今生の仕合、未来のよろこび、何ごとか是に過申候はんや。あっぱれわれら兄弟は、士の冥加にかな ひたる義と、浅からぬ本望にぞんじ奉り候。さきにての首尾のほどは、御心にかけさせられまじく侯。

など見えたるをもてしらる。秀和妻への文の中に、   貞立さまをよびむかへて、共にうきを語り慰みて、久しからぬ御一期を見とゞけ参らせられ候べく候。頼置事是にて候。

とある人成べし。

○秀和のうたも数々みしが、復讎の折、あづまへ出たつときの歌、其妻への返事にみえしあふ坂のとは、

別れても又あふ坂とたのまねばたぐへやせまし死手の山越

このうたのことなり。又しがの浦にて、

古郷にかくてや人の住ぬらん独寒けきしがのうら松

都のそらやうやう遠ざかればとて、

ふるさとの心あてなる大びえの山もかくるゝ跡の白雲

日に日に時雨降りければ、

別れ行思ひの雲のたちそふやけふもしぐるゝ東路の空

所所にてよむうたの中にとて、

よりよりに都に帰る旅人の数にもれなん身の行へ哉

わすれえぬ都のともの面かげに道行人をたぐへてぞみる

又その折、うたのともだちのもとへおくれるは、

思ひ出ば音羽の山の秋ごとの色を別し袖ぞともみよ

復讎のとき、各姓名を金の短冊に書て背につけたる、此人も同じしるしのうらに書つけしうた、

わすれめやもゝに余れる年をへて仕へし世々の君が情を

これは、先祖十大夫より世禄の恩をよみし也。赤穂より妻への文にも、   われら存の通に、当御家の始より、小身ながら今まで百年御恩にて、おのおのを養ひ、身あたゝかに一生をくらし候。

などみえし趣なり。また哀なるは、二月三日の文に、    幸右衛門ことも、心安くおもひ給ふべし、我此うたにて、あきらめられかし。

迷じな子とゝもにゆく後のよは心の闇もはるのよの月

死ぬべきなれば、古郷も忘たらんかとも思ひめさるべき。この歌此ごろおもひつゞけしまゝ申入候。膳部にいろいろの春の野菜を出されたるを見て、

むさしのゝ雪間もみえつ古郷のいもが垣ねの草ももゆらん

凡四十六士の詩歌連俳とて、此一挙をしるせるものにみえしは、大かた市井の間、好事の者の偽作とおぼゆ。三宅氏もしかいへり。此老のうた右に挙る所は、其 真蹟の写しにて、かへりて世間の小説には見えぬもの也。猶数首あれどももらしつ。その平日のうたもみし中に、時雨を、

定なきそらともみえず槇の屋にかならず過る夕しぐれかな

炭がまを、

山風にゆきげの雲を吹とぢて烟短き小野ゝすみ竈

老後述懐、

老ぬればよそになされていにしへを語をだにも聞人のなき

などよろしとみゆ。つねにこれほどによまれたればこそ、心づかひの間にも、意の達せるうたは出きけめと、殊勝にこそおぼえ侍れ。また古学先生の文集に、此 母氏年賀の寿詩あるを見れば、その下流をも汲れしか。この先生、他の慶弔につきて、由縁なき人に詩をおくられしとはみえざれば、しかおもへり。