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人物名

人物名 遊女某尼 
人物名読み  
場所  
生年  
没年  

本文

大橋が島原にありける日、妹とよびける遊女を、中京の富る人とりて、とある所に隠しすゑたるを、其をとこの母きゝつけて、正妻むかふる 障なりとて諫るに、うけひかぬにはあらねど、たゆたひてほどへにけり。さらば今は彼かくれ人にあひていはん、とてよびければ、とみに其よる来たり。もとあ そびなりければ、いかに花やぎたらんとおもふに、見めかたちこそよけれ、有さまはたゞなるよりもうちしめりて、着たるものなどもいとあやなし。さてすのこ にふしめになりてついゐたれば、母刀自近くへよびけれど、猶はじめのまゝにてかしこみをる。刀自かうかうといへば、こたへはなくて、頭にかづきたるものを ぬぎて、かぶしの切たるに、一ト巻の文を添て出す。刀自いと腹ぐろき人にて、こは我にものいはせじとてするわざか、あなにく、なでう尼にならんずる心はあ らん、とのゝしるを、かたへの人しづめて、まづ其かけるもの見給へといへば、やをらしづまりて取て見るに、もとのねざしをまうすはい とつゝましけれど、父はあるやごとなき御方につかへ侍りしものゝ、後にははふれて、朝夕のけぶりもたえだえなるうちに、おもくわづらひて、薬のあつかひも せんかたなきに、みづから身をうりて、あそびになり侍ぬ。さて後、父も母もなく成しかば、あはれ、たのもしき人もがな、此川竹のうきふしを遁れて尼にな り、父母のため、みづからのためも、涼しきみちのおこなひをのみし侍らんと、神にも仏にもねぎつゝ月日をわたりしに、此あるじの君、年比馴まゐらするまゝ に、この志をあはれとおぼして、わが身をあまたのこがねにかへて、まづしばしとてなん、御あたり近くすませ給へりき。さてはやうほゐとげぬべきを、さすが に人のこゝろははかなきものにて、馴はまさらでとか、御情のほどのやるかたなく、今はと別参らせんことの悲しきに、けふはあすとのどみて、おもはずに月さ へ日さへ重り侍ぬ。かゝるよしをもゆめしらせたまはで、御まさめむかへ給ふ障なすものと、いかにいかににくゝおぼしつらんと、御心ぐるしうこそ、こよひた いめ給らんと聞えさせ給ふにつきて、おもひさだめてなん、かうかぶしをたち侍ぬるは、うきたることにはあらぬよしを見え参らせんため也。などやうに尚いと こまやかにて、歌もありければ、刀自よゝよゝと泣て、さる心あらんともしらで、はしたなめつることのはづかしうくやし。今はたゞわれをたのもしきものにお ぼせ。いかにもいかにも思ひ給んまゝにはからひてんと、ねもごろに聞ゆ。さて住どころは京の内にてさるべき所をといふに、いな、とつ国は水草清しとかきこ ゆれど、しるべなき遠き境はさすがにえ堪侍らじ。大原の山こそ、むかしより世をいとふ人のすみ所としもうけたばれば、そこに身をおく斗の草の庵しつらひて たまへといへば、やがていふまゝにしたり。それよりおこなひをのみして、いとたとくてありへけるが、二とせ斗ありてこゝちなやみけり。さりければ刀自聞つ けて、山ざとびんなしとて、おして近き所にうつしぬ。くすしむかへてあつかはすに、尼いなみてうけず。やうやう日を経ければ、刀自いかにせんと頭をかきて わぶるに、あるものはからく、かれがたはれにてありし時のとも大橋といふは、今は人づまにてそれの所にあり、ものゝ心しりて、うたなどもよむ人也。かれを よびていさめさせ給へ、と教るに、いとよきことゝて、やがてむかへていはす。尼うちゑみて、そよ、刀自君のあはれみかへり見給ふことは、山にも海にもたと しへなきまでに侍るを、唯あが姉の君ぞ、ことの心をよく知給ふべければ、おもふこときこえん。たはれにてありし時のこゝろづくし、いかにとかおぼす。はづ かしく悲しきこと、いひたつれば、地獄、餓鬼などいふさかひもよそならず。それをのがるゝだにあるを、かうほゐのまゝにおこなひして明しくらすなん、あが 身はたゞ今唯仏の国に生れたるおもひにぞ。されどもとよりはかなきものにいはるゝ女の心のうへに、年もまだはたち比に侍るうへはなん、後いかならんともあ が心をえしり侍らず。もしたゆむこゝろいできなんには、いかにあさましう口をしからまし。かう心ちの清くあらんほどに身まからばやとおもひとりて侍ればな ん、病のたひらぎぬべき薬はさらにたうべじとおもひしめ侍れ。おほよその人はきゝもわきたまはじと、今まではかうも聞えずすぐせしをなど、いとねもごろに くどきつゝ、其こゝろのうたをもよみしに、さしもの女もいさむべき言なくてやみつ。さていくほどなく終たりしが、露乱るゝけはひなく、めでたかりしとぞ。

(追記)

右の事状は馬杉亨安とて九十有余までながらへて歌好まれし老人、予が忘年の友なりしが語りて、其ころ何がしの朝臣仮名ぶみに書たまひ、 又ある儒士真名にも書しが、今はいづこに紛つらん、その尼の名もわすれしとをしまれしをおもひ出てしるす。物語ぶみめかしく書るも、かの仮名ぶみの名ごり をおもひてなり。又かのかぶしをたちたる時のうたを、擬らへてよみこゝろむ。

一筋におもひたちぬる法のため千すぢの髪はをしけくもなし

おなじく、薬をのまで死んとせる時のうたになぞらふ。

ながらへてあらんものかはわれながら後の心のたのまれぬよに、

いと拙けれど、彼志のまゝをつゞけたるなれば、手向ともなり侍らんやとてなん。