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人物名 |
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追記 |
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本文 |
専斎は江村氏、諱宗具、倚松庵と号せるは、その庭に古松拾余株ありける故なり。祖、栄基は備前三ツ石の城主にして、落城の後京に登り、宗具に及ぶまで、新在家といふ街に住り。父既在は和歌連歌を好み、殊に聞香の伎に名あり。宗具初て学業にこゝろざし、かねて医を学ぶ。始加藤肥後侯清正朝臣也。 に仕へ、のち森美作侯に仕ふ。されども身は京に住り。寿百歳をたもちければ、後水尾上皇仙洞に召て、修養の法を 勅問ありしに、奏すらく、平生唯一の些の字を持す。食を喫も些、食欲を節にするも亦些、養生もまた些、此外に別の術なしと。帝大に感じ思召て、鳩杖、銀、絹、茶、酒などをさへ下し賜しとかや。此一条は東涯の盍簪録に出。 その年の九月、彼庭の松のもとに、松覃数茎を生ず。奇異のことなりと人もてはやしぬ。寛文四年、百歳に充る元日に口号の詩歌あり。 もゝとせも猶あきたらず行末をおもふこゝろぞ物笑ひなる といへるが、中にはまさりたらんとぞ。此翁の話を書し老人雑話といへるあり。おもしろき昔がたりなり。○宗具の子宗珉、字友右、全庵、又剛斎と号す。那波道円に学ぶ。少年にて青山侯の文学となりしが、故有て病に托し仕を致し、京師にありて教授す。其後、紀藩より聘し給ひしかども仕へず。先主への義を思ふなり。後また慶安四年、近衛藤公詔を伝へ給ひて、禁中の侍講たるべしとありしも、固く辞奉りし。是また紀藩の義によるとぞ。よりて睿藻を下し給ひ、是正して奉けるもめづらしきためしなるべし。 |