淡海蒲生郡中山の里の隠士永済は、西生と称す。父阿波守兼名といへるは、徳大寺家の諸大夫にて、麻生庄を領し、荘内鋳物師といへる所に
住しが、其女弟は蒲生知閑の息、音羽右馬允秀順が妻なりしゆゑに、知閑を助て戦死す。かゝる故に知閑、永済を扶持せしとぞ。此人もと滋野井殿に親しく参通
ひければ、中山に閑居せる後、是までの地名皆日野に近き所也。
蔵人に補せらるべきよしの勅を伝へ給ひしに、固く辞申て、
みことのりかしこくはあれど友とせし我中山のまつやうらみむ
とよみて奉り、終に出ずして歿せり。もとより和漢の才人にて、北村季吟法印の著せる和漢朗詠集の抄に、歌は自注し、詩は永済の注を用るよしかゝれしは此人
なり。右勅に答し歌も、清原元輔の集に、
遥にぞおもひやらるゝうとからぬ我中山のまつの梢を、
といふを取れるなるべし。是は大和の中山なるを、近江に取用たるも学者の仕業とおぼゆなど、日野の人、富田氏の話也。此人、近比西生と称を改しは、もし遠
き葉ずゑの露のゆかりもあるにや。凡此書近世を集る間に、此永済主は時代やゝふるびたれども、かばかりの人を世にしらず、予も彼朗詠集の注永済とあるを、
音にてよみて、五山の詩僧にやあらんとおもひしに、此説をきゝて明らめ、其隠操のしたはしければこゝに記す。蒲生氏も代々歌人にて氏郷主に及ぶ。闘戦の
間、風流の聞えありける家の姻族に、此隠士ありけるもましてめづらし。 |