若き時は下河辺彦六具平と名乗たり。和州宇田の産。父は小崎氏、いかなるゆゑにか母の氏を称へ侍ける。もとより妻子なくして、中年より
津のくに難波のかたはらに隠居をしめ、静に書をよみ、中にも歌学を好み、万葉集、古今集、伊勢物語などは暗記したり。其学問おのづから伝聞るをもて、大坂
の富人多く弟子となれり。生得、世に謟ぬ人がらにて、心のおもむかぬ折は富家のまねきにも応ぜず、訪来れる人にもものをもいはず、枕を高うしてあるひは眠
り、或は書をよみて、心にまかせて過しける。西山公水戸黄門光国卿。
其才を聞しめし召けれども、終にしたがはざりしかば、紙筆を賜りて、万葉の註を請たまふにも、こゝろに趣たる時は一首二首づゝ註して、又懈がちに侍りし
まゝ、果さずして貞享三年丙寅六月三日に身まかり侍りぬ。春秋六十三歳。円珠庵の契冲師と交深かりければ、遺稿を集めて晩華集となづけたり。其集中のう
た、
述懐のこゝろを、
桂川こゝろにかけし一枝も折られぬ水に身は沈みつゝ
ゆづかつら仰げばいとゞ高き木のきることかたき大和言のは
よみとよむわがことのははあし原のうらみやせまし住吉の神
わかのうらをしらぬ板井の蛙だに声は詞の数にやはあらぬ
和歌の浦にいたらぬ迄も紀の国や心なぐさのやまとことのは
末の集の歌どもの昔のうたに多くおとりゆくと見ゆるを、
難波津の流れに生るあしづゝの末の世見えてうすきことのは
契冲が山にかくれてよめる俳諧の歌に、
世中にうめる心は山柿のまづほに出てくだけぬる哉。
とよめるをきゝて、
世をうみのへたよりみてぞこのもしき其山柿にみのなれる人
その外多歌もあれども略し畢。
為章按ずるに、長流がうた大かた是らの風体なり。長流は儒学まさり、契冲は仏学に深し。在家、出家のさまはかはりたれど、清操ともに昔
の隠逸にもおとらぬ人品なりけらし。長流が述作、累塵藻水集、続歌林良材、枕詞燭明抄、万葉名寄等也。蒿蹊云、予聞けるうちよしとおぼゆるは、
下野やなすのにしげる篠をとりてあづまをのこは矢にぞはぐなる
つひにわが着てもかへらぬ唐錦立田や何のふるさとのやま
此の立田のうたを、右の桂川のうたにあはせて思へば、はじめは出身の望ありしかども、其才をしる人なければ、おもひすてゝ隠士に終けるなるべし。その万葉
の註語は、代匠記にまゝ見ゆ、又季吟拾穂抄に或説とて出されしは、此人の説とおぼし。其流義の説にあらねば、不用とのみ書れしに、かへりて道理にあたれる
が多し。歌の体は、契冲師と此人、同じ筋也。契冲十七歳の時のうたを見て才を感じ、方外の友となるよし。契師の徒義剛もかけり。
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