僧契冲、諱空心、俗姓は下川氏、其先は近江蒲生郡馬淵村に住す。祖父、左衛門元宜、加藤肥後侯に仕ふ。父、善兵衛元全、尼崎青山侯に仕
ふ。師、寛永十七年庚辰、尼崎に生る。歳甫五歳、母、間氏、口づから百人一首を授るに、不日によく記得す。父も実語教を授るに、又同じ。父母おどろきあや
しみぬ。七歳疫を患へ、巫医しるしあらず。師ひそかに天満天神の号百遍を書こと三七日、一夜霊神を夢む。自菅神の霊と称して曰く、汝が至誠を感じて、病を
除き命を延ぶ、他日僧となりて自勗よと。覚てのち病癒ぬ。さて夢中のことを説て、出家せんことを父母にこへども不聴ありしかば、自腥葷を断て、常に仏号を
称ふ。父母其志を奪ふことを得ず、遂に是を許し、その近き今里の妙法寺丯定密師の弟子とす。時に年十一歳。手定はじめ般若心経を授く。よむこと四五遍にし
てそらに唱へ、かつ書く。十三歳、髪を薙て高野山に登り、東宝院快賢に学ぶ。賢、又法器として是を導き法を伝ふ。やうやう時の為に称せらる。寛文二年、檀
越の請により、津のくに生玉、曼荼羅院に住り。既にして其城市に隣りかまびすしきをいとひ、壁上に歌を題して遁去、一笠一鉢意にまかせて、大和の諸名区に
遊ぶ。長谷に至りては飡を絶、念誦一七日、室生にしては煉行三七日に及ぶ。義剛遺事には、幻身をいとひて、こゝに形骸を捨んともせしといへり
。又高野山にのぼり、菩薩戒を円通寺快円にうけ、持律益々清苦す。泉州久井の里に往て、山水の奇を愛し、住ること年あり、三蔵を尽し、自他宗の章疏、及儒
典、詩文集におきても渉猟せずといふことなし。従ひまなぶもの多し。又池田川の側にゐて、徧く皇朝の実録古記をよみ、専国歌を好て、広く其書を探る。延宝
五年河内鬼住山延命寺覚彦に就て、安流灌頂をうけ、儀軌二百余巻を手づから書て、生駒宝山に納む。同八年、本師丯定寂せるにより、遺命して妙法寺に住持せ
しむ。師もとより好む所あらざれども、其母氏老て此里にあるをもて、やむことを得ずして往き、別に一室を寺の傍にかまへて孝養す。水戸西山義公、長流が果
さゞりし万葉の註を、此阿闍梨におほせ給ふとて召しかども、これも亦固く辞して参らず。然れども公の古義を好たまふをよろこび、遂に万葉代匠記廿巻、総釈
二巻を作りて参らす。開巻第一首、雄略帝大御歌に、籠の字の訓をしらず、ことよみきたれるを加太麻と訓し、神代紀の無目堅間を証とす。西山公その卓見をよ
ろこび、且其おぼす所に合ことを奇とし給ひ、白金千両、絹三十疋を賜ひて是を労ふ。師即寺院の修造に充、かつ貧乏のものを贍して、一も蓄へず。又古今余材
抄を著す。明石のうらの朝霧の歌、古註眺望とし、或は行を送るとせるものを非とし、こは家山日に遠く、前程限なき波の上、朝霧朦なる間にたゞよふ旅懐を述
ぶ、故に紀氏も覊旅部に納ると説。義公これを読たまひ、掌を抵て千古の発明とし、書をたまひて、一たび来まみえん事をしひ給しかども、林壑の性、公侯に謁
するに慣ずとて遂に就ず。母氏歿するに至て院を退き、難波の東高津に居を卜ス。高津といへども甚僻地にして、ゑさし町と号く。いまも畠など多
ところなり。予ことさらに往てしれり。
円珠庵といふ。俗客を謝し、清修自適す。義公時に物を賜り起居をとはせ給ふ事絶ず。此公薨じ給ひて師もまた続て寂す。義公にあらずば師の高きをしらじ、師
にあらすば義公の選にあたらじ、其終も亦相須がごときもの、まことに千載の奇遇といふべし、と義剛は書り。水府の儒士安藤為章、命によりてしばしば往来
し、説をうけ事をとふ。師、元禄十四年正月微恙にかかり、廿四日にいたりて病革る故、其徒に永訣を告、且疑ふ所を正さしむ。涌泉問曰、師、今阿字本不生域
に住せるや否や。答曰、然り。およそ人平等にして差別あるべし。泉曰、平等差別異なることなき歟。曰、心平等といへども、事差別あり。差別の中心平等に当
る。老僧がことこれを記せと。此一条義剛遺事には病中の自記を挙。大意同ければ略す。
廿五日、定印跏趺を結びて逝す。時歳六十二。庵後に葬る。師為リ人ト寛厚愛シ人ヲ、恭謙能下る。然も密教の上に邪義を説者あれば、是を闢て避くる所なし。
其論辨当時有識といへども当がたしとぞ。且記憶比類なきことは、円珠庵にして万葉を説に、古今の事実、援引せる所の歌詠等、始より思慮に亘らずして綿々口
に絶ず、連珠の函を出るが如し。或は人ありて師の古歌の記得をとふに、三千首以上自しらずと答ふ。所著ス、厚顔抄三巻、古事記、日本紀の詠
歌、童謡を註す
勢語臆断四巻、百人一首改観抄三巻、源注拾遺八巻、勝地吐懐篇二巻、予校合、且補を頭に記して書林に附す。近刻すべし。
河社二巻、類字名所集七巻、名所補翼抄八巻、和字正濫五巻、代匠記二十巻、総釈二巻、古今余材抄十巻、以上、為章著す行実に出す所かくのごとし。又正濫の
難に答ル書八巻、義剛遺事にいふ。此外予しる所、雑記、雑々記、新勅撰の評、二十一代集、古今六帖の校合をはじめ、物語の類ひに、此師の書入あるもの多
し。また其宗門の疏鈔若干巻、其徒につたふるとぞ。
右伝、安藤年山為章著所の行実に、法系、南山、補陀洛院僧義剛録遺事を錯綜折中して、国字に訳して記す。円珠庵の墓前に建る五井氏
の碑文、其法に優なることは此両事状に譲り、唯国学に功あるよし斗を録せるは、道同じからざるゆゑか。世人もまた此長ずる所を称へて、其法徳をとはざるの
みならず、あるひは僧なることをさへしらざるあり。予師のためにふかくいたむがゆゑに、繁きを厭ず始末をあぐ。安藤氏が書る行実の終に、師歌学卓絶といへ
ども、是は其余事のみ。歌学をもて師を論ずるは、師をしるものにあらずといへるこそ、公論なるべけれ。
蒿蹊又按、此師の歌学、顕昭法橋の説を梯として、古書を見明らめしものとおぼし。凡近世の人、唯中川の流の説にあらされば道の言にあら
ずとす。是によりて過を過にて伝ふるが道なりといふ説さへおこれり。此師、此関を透過して、一事一語徴をいにしへにとる。其中、或は過不及なくしもあらざ
らめど、一たび此道ひらけてこそ、是に次でいふ人もいできけれ。然れば千歳の一人といはんも過言にあらじ。詠歌は家集漫吟近く刻につくよしなれば、たゞ其
境界のうた少し、安藤氏の出せるをあぐ。
山家のこゝろを、
忘れても都のかたにながめせば風吹とぢよ峯のしら雲
山里に折焼ましばめづらしく花よりほかの香に匂ひつゝ
やま川の亀の心をこゝろにて尾を引ことをならひてぞすむ
述懐のこゝろを、
我こそは蘆の下をれ一節のありとも誰かありと見るべき
山にてもなほわすられぬ此みゆゑ心の猿は静けくもなし
世中のおも荷ははやく捨ながらかるの市路にうることもなし
二十九になりけるとし、
我身いまみそぢもちかのしほがまに烟斗のたつことぞなき
■絶けるとき、
やくとみておもひの門は出しかど烟絶ては住かたもなし烟
など、長流のうたよりもやはらかにおぼゆ。又この師の国文高古にして趣味あり、尤、学べき躰なり。
○門人今井似閑、見牛と号す。京師の人。隠居しては六波羅の東、阿仏屋鋪といへるに住り。此家今尚残れり。大廈にて庭おも
しろしとなん。見牛作れる所か、いまだよくしらず。地は阿仏尼公の旧居といへり。
所著万葉諱あり。又写本数車を上加茂の神庫に納む。不朽をはかると也。契師の著述もみなありとぞ。
○同じく海北若冲、岑柏と号す。浪花の人。所著和訓類林あり。甚要なる書なり。
○同じく野田忠粛、摂津今津の人。富豪なれども古雅をこのみ、はじめ長流に従ひ、後契冲に学ぶ。其居、武庫山を望めば、自六児楼と号
す。後住吉にすめる時、万葉類句数巻を著し、何某の卿の伝奏をもて、霊元法皇に奉り、うたをも添たりとかや。
又柏伝といへる書を著せしを、近年その氏流の人梓にのぼせりとぞ。此外、門人なほあるべけれどしらず。江友俊といへるも契師に学べ
るよし。円珠庵後主源光に合して碑を建。文を五井蘭洲に請るむね、即碑文に見ゆ。
○京師に樋口主水といへるは、似閑門人なるよし。此家に代匠記の善本、又講説を書入し万葉集など蔵せるよし。二十年前に自火に焼亡す。
惜むべし。印行の改観抄は此樋口氏・屈景山子にはかりて挍合せる所なり。写本に合せては其功見ゆ。
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