春満阿豆万麿ととなふ。
姓は荷田宿禰にして、羽倉を氏とす。通名斎宮。洛南稲荷の祠官なれども家を嗣ず。弟を主とし、自は国学の復古を任とす。神代巻、万葉集において家学を成せり。契冲と時を同じうして是は後輩歟。彼説はしるやしらずや。契冲は仏者なるうへに、其人綿密に過て泥滞せるものもまゝ見ゆるを、此翁は一層登りて説をたつ。およそ元禄年間は諸道復古の運にあたりたる時にして、国学を唱ふるは契師と此翁なり。よみうたは主とする所にあらざれども、又凡ならず。今おぼえしは、
けふみればきのふの淵はあさか潟汐のみちひぞ世の姿なる
などいとめでたしや。又中世已後淫靡風をなせるをいきどほりて、生涯恋歌を詠ぜず。その家集を見るに、当座によせごひの題を探りては、其物を雑になしてよめり。たとえば虎によするこひを雑によめるは、
仇むくうおもひ巴提使にたぐへては虎もつたなきものとこそみれ
日本紀欽明巻の故事によりて読れしも学者のしわざなり。巴提使、百済国に使して、虎のために小児をとられ、雪の中に虎のあとをとゞめていたり。その虎を殺せる故事也。巴提使、々字印本に便と書、訓もはすひとつけたるを、若冲和訓類林にはてすとよむべし、便も使の字ならんと考へられしを、いま此うたに合て、学者のみるところ同じきを感ず。
恋歌をよまれざる方正、尤、賞すべし。恋の題詠のことにおきては、予もまた私に著す論あり。はた、先年、荷田三峯子の托によりて此翁の家集を挍考し、序を書しにもいへり。
国学の学校を京師に開んとて、官の許をうけ、既に地を東山に卜するに及びしが、今の東本願寺墓地の辺とぞ。
病に罹りて年を経、不成して終れり。をしむべし。著述、大やう散失す。自焼失しともいへり。伊勢物語童子問、万葉の解などは彼家に伝れり。神代巻は家秘にして、門生にあらざればつたへずとなん。
(追記)
○在満満字是もまた麻呂と称ふ。
通名東之進、春満の姪也。同じく国学を唱ふ。大嘗会具釈、同便蒙等を著す。今代故実の行るゝによりて、其考索の明なるもあらはれぬるとぞ。又国歌八論あり、後世の弊をためて見る所なきにはあらねど大過せり。皆梨棗に登すに憚有て写本也。又百人一首古説とて、此人と真淵と共に著せるもの有、又世に公ならず。近比印行せる真淵のうひまなびは、是にもとゐせるなり。関東にして国学により、某の君に仕へしが、かの君おぼす所ありて、其説に従しめんとす。在満きかず、貴賎品ことなりといへども、各志ス所あり、己が見る所をすてゝ人に従ふは謟諛なりと。終に禄を辞して去。家居教授して終る。其子御風、通名東蔵、家学を嗣て江府にあり。女弟、民子もまた古きを好み、歌をもよみて同じく教授す。倶に近年物故せり。
○真淵は、姓加茂県主、岡部衛士と名のる。はじめは三枝といへり。遠州浜松の人。春満に従ひ家僕のごとくして京師に学ぶこと年あり。学成て江府に下り、大に古学を唱ふ。春満は万葉の解に功ありといへども、歌はその風をよまれず。もとより詠歌は主とせず。在満は、万葉の比は文華いまだ開けず、故に、麻ふますらん其草ふけのゝごとき、語を成サざるものあり。歌の盛は新古今集の時なりといへり。国歌八論に委シ要をとりて記す。
真淵及びて、はじめて万葉の風をよみうつし、文章もまた古言をもてつゞり、一家を成シ、世の耳目をおどろかす。従ひ学ぶもの多し。その説に、契冲は新墾しつれど、いまだよく植つくさぬ程に過にしこそをしけれ。大人は春満をさす也。
歌のみか、ふりぬる千々の書どもをあらすきかへせしいたづきのかひさはなれど、まだ刈おさめ果ざるに病にふしつ、などいひて、おのれ是がなりはひを遂るよし也。実に古を発揮して後生をいざなふ功少からず。其証をいはゞ、ある時、南郭服部氏をとひて物がたらふついで、唐詩の風韻おとろへて六朝に及ばぬは、汾上驚ク秋ヲの詩にてしりぬといふ。南郭いかにととふに、さればよ、
北風吹キ白雲ヲ。万里度ル河汾ヲ。(北風白雲ヲ吹キ、万里河汾ヲ度ル。)
といへる起承の句まことに覉旅の秋情いはんかたなきに、
心緒逢ヒ揺落ニ。秋声不可カラ聞ク。(心緒逢揺落ヒ、秋声キクベカラズ。)
の転合の句、上の意を註せしに、気格の落たるをおぼゆ。吾邦の歌も後世のさまおとりゆくは唯かくのごとし、といへれば、南郭も大に感伏せしとなり。私按、今のよのうた、巧みなれば苦しく、軽けれは卑弱なり。その卑弱なるは、やゝもすれば、めづらしな、たぐひなや、えならずよ、悲しさ、うれしさなど、いひはてゝ含蓄の気象なし。この論よくあたれり。
又山辺の赤人うしのうた、
田子のうらゆうちいでゝみれば真白にぞ不二の高ねに雪はふりける
といふを注して、百人一首に入られしは万葉のいにしへにあらず、改ためたるなり。
田児のうらより磯伝に、さつたの山陰をうち出てみれば、不尽の高ねの雪真白に、天外に秀たるを、こはいかでと見て、感じたるさまなり。何ともいはで有のまゝに述たるに、其時その地其情おのづから備ること、古の妙なるものなり。赤人は短歌の神なること此一首にてもしらる、と解て、細注に、悠然視ル南山ヲといふも相似たりといふ人侍れど、かれはその所にてのこと、是はふと山陰より立出て見出したるなれば、其義異也、また悠然としてとは、みづからのこゝろを注せるに似たれば、猶作れるもの也、此うたは唯有のまゝなるが似るものなきなり、など論する所、ふかくその旨を得たりといふべし。されども何につけても大成を任とせるゆゑに、疑を闕ず、強解もまたまゝ見ゆるにや。又からくにのことを仇のごといひて、孔子をさへ議することあり。是は近世の儒士、みづから夷と称し、此国の非をかぞへて、かしこにうまれぬをうらむるごときをいきどほれるなるべし。是もとよりその罪いふべからず。皇神の御ン恵にもれたる国の蠧なり。されどもまた真淵も甚しといふべし。たとへば病を薬せんに、是になきものはかしこに求んに何のいむことかあらん、唯病のたひらぐをぜとすべきのみ。こは心狭きの故歟、家学を興スにもとゐせる歟。生涯国学を任として江戸に終る。歳八十有余とぞ。よみうた、門人うまきが記しおける中、すこし書いだす。
春の日山を望てふ題を、
見わたせばあめのかぐ山うねび山争たてるはるがすみかも
すみれぐさを、
故郷の野辺見にくれば昔わが妹とすみれの花咲にけり
其住居を県居と名づけゝる所にて、長月十三夜によめる
秋のよのほがらほがらと天原てる月かげにかりなきわたる
あがたゐの茅生の露原かきわけて月見に来つる都人かも
鳰鳥のかつしかわせのにひしぼり汲つゝあかせ清き月よを
しはすのはじめつかた、こびなたの伝通院の室にまうでたるに、明なんとしは増上寺へうつりて、大僧正ときこえんまうけ、うちうちにありと聞きて、
朝日かげにほへる山に紫の雲ぞたつなる春近みかも
遠江のさやの中山のにしに続て、今は阿波が嶽とていと高き山あり。式にあはばの神社あるこれなり。こゝのかたを絵にかきたるに、その山の下に旅人ある所に書きつけ侍り。
東路は衣手寒し白雲のあはゞがたけの秋の初かぜ
神無月斗あらしを、
科野なる菅のあらのに飛鷲の翅もたはに吹あらしかな
又若きほどのうたとて、別に朱をもて宇万伎が書添し中、
鳴子ひく門田の稲のほどもなくたちてはかへるむら雀哉
うつり香を花にかすめてたどる哉一夜のいめの春の明仄
うまきいふ、是等、姿も詞もよろしきものから、こゝろかしこきに過て、いと後の世のさましたり。中さだには、詞もすがたも唯あがれる世のさまにのみよみうつされし多かりしを、やや老に至りて、かゝるさまに前のうた共をさす。
のちよみいでられしは、いと高しともたかし、世に聞しる人はありやなしや。蒿蹊云、此老の後のは、おのれも聞しる人の数に入べし。又若きほどのは、後の世のさまなれば、歌ぬしの後の意にはかなはざらめど、其才のたけたるをおぼゆ。かゝればこそ、一家の学をも唱へ出しけれ。中さだのは、姿詞、人をおどろかせど、まことには力もいらざるものなれば、我も我もとまねびよむ人多く、よくも心得ぬからに、腹を捧ふるに堪ざるものもまゝ聞ゆ。また国文は、此叟一躰をはじむ。例の古言をとりまじへて、一言も字音をまじへず、記のかなよみ、又祝詞をよむがごとくして、しかも自在なるもの也。此人著述多し。万葉考、壱弐巻、別記一巻刻につく。
冠辞考、印行す。
祝詞解、又、祝詞考、伊勢物語古意、伍意、国意、誤意の類五部有。
万葉新採百首解、以上みな写本。
百人一首うひまなび、浄土三部仮名抄言釈二部は印行
、此外、人の問に答て著す所、竹取歌の解のたぐひ、小冊に数部あり。此門人の中、藤原宇万伎、楫取魚彦もまた著述あり。世間に聞えし人なり。又倭文子といへるは、歌、文章ともに奇才ありて、はやく歿す。碑文国字にて真淵著して、甚をしめり。その家集梓に行る。
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