[ 日文研トップ ] [ 日文研データベースの案内 ] [ データベースメニュー ] |
人物名 |
|
||||||||||
本文 |
竜袋は赤塚氏なれども、幼より他家を継で中村を称す。名重治、通称孫兵衛といへれども、号をもてしらる。為人世務に疎く、家の有無を心とせず、相学に長じ、門人も亦多し。相者は多く既往を知て、将来に昧きに、此人つねに門人に会して、其血色を見て曰、子、明日は花見に遊んとするや。また一人にはいふ、暮なば青楼に登らんと思へるやなど、其言一もたがはず。あるとき一人を制して出入をとゞむ。いかなる故ともしらざりしに、後に或ル家婦に淫せり。其知れるもの翁に問て、もし此ことにや、然れども其時はさることなかりしにはいぶかし、といふ。翁云、血色既に動たり。それも諌てとゞむべきなれば、事に先だちてとゞむべし、諌の及ざるを決するゆえゑに交を断てりと。又博奕にふけりしものも、かくのごとくなりしなど、其門人話せり。凡人を相するに、必、心術を説て曰、相善也といへども志不善なれば益なし。相の不善も亦能志行をもて勝べしと。又曰、相を看る人は世に多し、相を行ふ人は稀也、吾は孤相なり、孤なれば必貧なり、孤に居て貧を安ンずべしと。其家を然るべき人に譲り、一子新次郎といへるも他の嗣とす。妻ははやく失ひたれば独身にて、食キあれば喰ひ、尽る時は不食ハ。後また知己門人等に別を告て曰、我餓死の相あり、徒に生で他の、施を費べからずと。是より門戸を閉、出入を禁じて不食ハ。数日の後逝せり。齢五十有七也。 (追記) 按、近世、相をいふ人多く、俗客、又多く是を喜ぶ。然るに此人、相によりて心行を教ふるは奇特也。猶蜀の厳君平が売卜によりて人を導くが如し。自孤相に住し、つひに餓死せるは甚しけれども、人に寄て喰ふは餓の相にして、漢ノ鄧通が餓死の相ありて、終に長公主の衣食を仮り、一銭も吾有と名事を得ず。寄死人家ニと班史に見えたるにひとしく、かくては生るも死るにひとし。されば中行にはあらざれども、死生の間にわづらはざるは奇人といふべし。 |