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人物名

人物名 太田見良  
人物名読み  
場所  
生年  
没年  

追記
人物名 猩々庵 
人物名読み  
場所  
生年  
没年  
人物名 僧覚芝 
人物名読み かくし 
場所  
生年  
没年  
人物名 原元佃房 
人物名読み げんげんつくだ 
場所  
生年  
没年  
本文

太田見良、字資斎、伊予大洲加藤侯の士也。学をこのみ医を学びて京師に遊ぶ。初メ富商某が僕を療する日、衆医竝ビ座す。適主人其席を過 るに衆医皆伏ス。主人敢て答礼をなさず。見良大に恥て復その門にいらず。後故国の侯の翁主、官家に嫁し給ふに召れて侍医となる。養生の法をもてしばしば諌 れども用られず。故に脚疾に托し禄を辞して退く。此後、永く家居し、槶を踏まざるは、此言を実にすとなり。自ヲ往ずといへども、病客門に充て医療をこふ。 学生も亦あまた従う。其清白の一事は、薬物において極品を撰て価をとふことなく、その言にいはく、もし時の価をしれば、おのづから鄙吝の意生じ、調剤の 間、其価貴きものは減ずるに至る。わが浅ましきをおもふがゆゑにつつしみてとはずと。聖護院邑に住て、つねに室を浄除し、書画、瓶花、盆栽などを翫び、た のしみて一生を尽せり。もとより禅を信じ、壁宗の諸老に交る。就中、淡海の覚芝和尚といへるは、殊に相得てよし。和尚、京師にして疾甚かりし時も、吾宅に て介抱し、其妻女起臥を助く。和尚疾間なる時戯て、

女ほどめでたきものは又もなし釈迦や達磨をひょいひょいと産む、

和尚疾重しといへども、疾と真心と主客正しく別れて見る。及ぶ所にあらずと深く感ず。又売茶翁も知己にて、翁、茶をうらば、吾は薬をうらんと、既に其具を も調しかども、禁足の志決せしかば止りぬ。終る年六十一歳也き。

○猩々庵原松は伊賀の人にして、後京師に住り。其角門人にして俳諧を業としたれども、文学あり。専禅に参じ、又酒を嗜む。背面の達磨尊 者の賛に、

こちらむけさけがいやなら寒の餅。

又ある時、布袋和尚の図に題して、

小袋に大千いれて花ごころ。

といへるを、右の見良、覚芝和尚へ語られしかば、和尚微笑して、いまだし、我ならば、

底ぬけの帒に実あり芥子の花。

とすべし、と示されしを聞て、速に往て教の忝を謝し、後しばしば問訊す。あるとき生死の問に答て、和尚、

生死事大遁はないぞもろ人よきのふの夢がけふもさめねば

居士かへし、

夢に死し夢にうまるゝあさね坊さめて苦をする釈迦よりはまし

吉備津のかたへおもむくとて和尚に留別す。

行水をつなぐはどこの蔦かづら、

某ノ年、

気がむけば杖にはねあり庵のはる。

と歳旦せし正月、頓に死せり。

(追記)

右、両伝の間に混じ出せる覚芝和尚、諱広本、京師の人にして、淡海馬淵庄、巌蔵山福寿禅寺の一代也。巌蔵山は予が曾祖父汲 江軒是閑、族人と共に建立せる禅院なり。 其ころ檗門の獅象と聞え、機発閃電のごとし。嘗テ本山の幹事たりしを、病をもて辞して退くとき、僧問、和尚は是金剛の性体、何の病かある。答曰、金剛に金 剛の病ありと。平生機用此類也。其外一回耳目に触ること、何事によらずよくせずといふ事なし。小僧の袈裟衣まで自裁縫して着せらる。又医薬のことをも見良 などにとひて能得意す。されば知る人は強て医療をこふもあり。予も幼して痰を憂うこと深かりしを、此和尚の医療によりて今に及び、其時のごとき苦をしら ず、大に賜をうく。和尚、只一事、桶工の輪を入る味はしりがたしと語給ひぬ。延享三寅年五月、住院に遷化す。時に遺偈を書て、偈は遺忘す。 五月といふ所に至り、侍者、是にて止給へ、といへるを、和尚、意に知れり、と答て、直に十四日と書終り、ついで寂す。歿後身体柔軟にして生ける人のごと し。是正しく予が知る所也。是は前に一伝をたつべけれども、和尚の法徳行状はここにとゞまるべからず。今は、纔に予が幼してしる所のみなれば附録に属せ り。

○原松門人に、原元佃房といふは、淡海八幡の人にて、多能なれども生来赤貧也。酒を好みて意気慷慨す。其ころ郷人、大菊の新花を競ひ、 一茎あるひは数十金の物を翫ぶを諷して、

柴の戸へつかゆるきくをもらひけり、

また月見に、

誰誰は死ぬうつぶいて月見哉

李白が句意によりながら、実情を発露せるも哀なり。又春はきぬれどこもりをる、てふ言書ありて、

子ども等よ松の字をかけ子の日せん

なほよき句ども多かりし人也。予二十年前の旧友なれば、ついでにここに追慕す。世並みの俳諧行脚などいふ類ひの人にはあらざりき。