僧涌蓮は伊勢の人、高田派の僧にて、江戸院家地に住職せるが、高僧伝を見て頻に感発し、病に堪ざるよしの一封書をとゞめ、草衣にあらため、忍びてひとり京へ登り、生嶋なる人の仮初なる物見の亭に潜みしが、後は嵯峨のこゝかしこに住り。生涯一物もたくはへず。明暮念仏するいとまには歌をよめりしに、歌書一まきをだにもたらねば、詞を荘ることもなく、おもひにまかせたるが、かへりて真率人の及ぬ所ありき。今記得たるをはつかに挙。
ふるさとのははのもとへ行人あるとき、
忘れても寝覚するとはかたるなよ子は老ぬると親のおどろく
美人の髑髏を見る絵の賛、
朝夕の鏡も今はてにとらじこれをまことのすがたみにして
もじをかしらにして数首読し歌の中に、
野べみればしらぬけぶりのけふも立ツあすの薪やたが身なるらん
月にかりの賛、
雁かりと鳴わたれども秋のよの月にはとまる我こゝろかな
人のしき衾のあとまくらをわかたんために、白ききぬを頭のかたに付て、歌書付よといひしかば、
枕かる床のうみなる汐干がたこゝをあしかる沼となすなよ
浮木法師が二尊院の坊をかりてすめるが、火をあやまちて焼し時、かけりいきて、
かゝるとき常のこゝろのうごかぬを終りみだれぬためしにはせよ
ぬす人いりて、はつかにもてる物をとりていにけるとき、
捨し身はやぶれ衣に麻衾たることしれと残し置けん
矢部の正子が宮仕へに出る時、何にまれよみて給へといひければ、
行末の身のさちあらんをりをりも世の常なきを思ひ忘るな
題しらず、
あすもまた朝とく起てつとめばや窓にうれしき有明の月
捨し世を猶も忍ぶの草ならばおふる軒ばを又やいとはん
新祗のうたとて、
すてし身に何のねがひはなけれども心の道を神にいのらん
これらは其常の体也。或はけしきの歌にては、
滝をよめるに、
うきて立雲をなかばのとだえにて千尋を落る山の滝つせ
無題
有明の月しづかなる庭の面にをりをり落る木のはをぞきく
興遊未央といふことを、
暮ゆかば桂にくだせ月も見ん花の大井をさしのぼすふね
猶よき歌ども多かりしを、さのみは得覚えず。才ある人なりしかども、人にたとみられんさまをせず、きすぐに、はた狂したるやうにてありき。或人は評して、いらぬ人に才の有ことかな。これをたからのもてくたしとはいふべし、とわらひぬ。記憶もともつよく、智度論をみられし時などは、長き文段をそらに唱へられしに、其中かきて給へといひし処、半枚あまり、物語しながらかゝれしを、今なほ蔵せり。はじめは冷泉民部卿の君の御もとへ立いりて、歌のこととまゐらせしかど、是もよしなきすさびとて、後はまみらざりき。予ある時、戯れてとふ、はじめ発心遁世して江戸をいで給へるにあはせて、やごとなき御あたりに立いりて歌を学び給ふはにげなし、其意いかにぞ。法師わらひて、さばかりあはたゞしくいではしらずとも、のどかにぜんやうも有べきを、若きときの心ずゝみ、ひとへに野狐の精霊也。さてしも歌をこのむからに、かしこき御あたりに参りしもまたきつね也、とこたへられしが、理りに覚えき。さて、年を経て彼卿、入道し給へる後に、嵯峨へたづねおはせしに、法師あらざりしかば、そこらの山がつにつけて一筆を残し給り。
住かたは都のにしと聞ながら霞へだてゝ春もへにけり
御返し後にもてまゐりしは五首斗なりき。
春がすみへだてこし身のおこたりも今更くやし君にとはれて
といくる外は今わすれたり。又あるときわらびをこの御もとへまゐらせける時、添たるうた、
たてまつる亀の尾山の早蕨は千世をかぞふる手に似たる哉
入道殿甚賞し給ひ、秀歌に返しなしとなんのたまひおこせしとかや。さるに安永三年午歳五月二十八日に、彼君薨じ給ひ、此法師も寂せり。同じ年月日なりけるもあやしく哀れ契也けり。
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