大雅池氏、諱無名阿利奈と唱ふ。
字貸成、通名秋平、書画には或は九霞山樵と書す。京師の人。為リ人粛敬、寵辱をもて心をおどろかさず。善ク物と化して、苟も合し志を紆さず。外、疎放にし
て、内、実修、人と交て謙損し、しかもおもねらず。礼法に簡にして、往べくして往ず、答べくして答へず。是を義にかへりみれば、いまだかつて失ところあら
ず。恵ミて弗望マ、廉にして弗劌、其取予得失において恬如たり。平生行事多ク人の不意に出づ。於テ是ニ畸人の目あり。幼にして穎異、学ビ文ヲ学ビ書能せず
といふことなし。独リ絵の事に長ず。山水を図する、尤妙也と墓誌にいへり。幼して穎異のことは、三歳初メて為ス書ヲ。五歳書を善す。
一日黄檗に至り、堂頭千杲禅師に謁し、席上大楷書をなす。禅師深く奇とし、偈を賜ひ、寺中の大衆もまた詩を賦して是を賞す。初メ養拙
様を法林寺中、清光院に学び、後古法帖をとりて晉唐に泝る。画は紀国に往て祗南海に画法をとひ、又大和の柳里恭に採色の法を学ぶ。
又土佐光芳に国画の法を学ぶ。時に望玉蟾とともに相いへらく、従来、画家いまだ漢法を学びず、ともに是をはじめんと。玉蟾は唐伯虎をまなび、此翁は梅道人
を学ぶ。各竟に一家を成せり。後又倪雲林に傚へり。漢法の山水を画はじめたるころ、扇面に図して自携へ、近江、美濃、尾張の国々に售
んとす。人多怪て買者なし。於テ是ニむなしく京へ帰らんとて、瀬田の橋をわたる時其扇を出し、ことごとく湖水に投じて曰、是をもて竜王祭を祭ると。後いく
ほどなく、書画の名、海内に擅なり。好て名山に遊び高峻幽奥いたらずと云ふことなし。即取りて筆端の趣をなす。しばしば富士にのぼる
に、毎に其路を異にして、富士の図一百を作る。其変状みな自見る所、古今画工いまだ及ざる所也。其行事、多人の不意に出る話をい
はゞ、或時、難波に出たつに筆携ふることを忘る。妻玉欄見つけてもちてはしる。建仁寺の前にて追つきて授るに、道人おしいたゞき、いづこの人ぞ、よく拾ひ
給りし、とて別レ去。妻もまた言なくて帰れり。又近江高嶋侯のもとにて障子を画く。京に帰りて後、其報を賜ふに、吏云、礼服をつけて
謝を申さるべしと。道人諾して、やがて高嶋まで袴を着ながら行たり。又、江戸に下たる時、某侯の邸にしる人有てやどりす。六月十八日
になりて、けふは古郷祇園の社の御輿洗の神事也。いでそれを学んとて、とみに紙もて偶人を作り、火ともし、はやしものして邸の内をめぐらんとするとき、其
侯の世子みたまはん、先もて参れとの使有けれど、囃物に紛らはし、聞ぬさまにてかしここゝに行めぐりし時、などもて参らぬとむつがりて、使たびたびに及び
しに、今参らんといふ時、其偶人を焼うしなひ、こはあやまちし侍り、されどこれは祇園の御神に奉る志なれば、又人に見せ奉らんことを、神のほりし給はぬな
るべしといひしかば、にくみて速に邸をいだされたり。げにさもこそとてわらひつ。又ある豪富者画を托せしに、月日を経て果さず。使至
るごとに近日とのみいふ。一日童僕例のごとくに来るに、尚画ざれば、門を出るより独罵りて、這死画師、人を労することいくたびぞ、自負歟、惰歟、人をあな
どるか、といへるを聞て、急に走て引とゞめ、君がいふ所甚理也、吾過々とて、直に筆を染て与へたり。又一書林の僕、主人の金を用て遊
興し、放逐にあひ、他国へ行んとする時、道人のもとへ来りて別を告グ。道人甚憐み、我、主人に佗んといひて、持る所の書画調度を売て、その金をつぐのひ、
帰参せしめたり。中にも奇なるは、石刻の十三経を得んとて年比心にかけしかば、たくはふる所の銭百貫に及べりしに、書価なほ售ず、嘆
息して其銭を祇園の社に奉納す。時に御社修造のことあればなり。其時のさま、わらむしろの大なる袋に巴を書き、神輿紋なり。
拾貫文づゝ拾にして、門人とともに礼服を著し、青竹の棒もてさし荷へり。社司其名掲んとせしを固く辞す。されど誰となくてはあるべからずとて、玉瀾としる
せりき。定て此類の話いかほども有べし。今は予記得たるものを挙る也。其死病の時、はじめより薬を服せず、此度は起たずと決しぬ。時安永丙申四月十三日、
真葛原の草堂に終る。歳五十有四。舟岡の南、浄光寺、先人の墓側に葬る。墓誌は大典禅師著して石に刻む。此為リ人トの全体は墓誌により、聞所の話を添て其
実を證す。
恵恩院六如大僧都図像賛、并ニ小引、
丈人以テ書画ヲ著ハス名ヲ海ニ。余向キニ以テ室迩キヲ。屢相往来シ。略知ル其ノ人ヲ。蓋シ葆チ真ヲ耦シ俗ニ。隠ル、干小伎ニ者也。頃有リ人。齎其遺像ヲ。
求ム題センコトヲ一辞ヲ。余私ニ欽ミ高風ヲ。不揣蕪陋ヲ。輙為メニ賦ス長句ヲ。字々実録。不敢テ文飾セ。丈人有ラバ知ルコト応撫掌ヲ於無何有之郷ニ矣。
鶉衣蓬髪意怡然。言語近ク禅ニ形肖タリ仙ニ。
避ケテ世ヲ仍懐ク済フ世ヲ志。売リテ山ヲ不蓄ヘ買フ山ヲ銭。
襪材満チ屋ニ纔ニ容ル膝ヲ。川字成シテ腔時ニ弄ス絃ヲ。
至竟深心誰カ可シ会ス。空ク令ム姓字ヲシテ芸中ニ伝へ。
(恵恩院六如大僧都図像賛、并ビニ小引、
丈人書画ヲ以テ名ヲ海内ニ著ハス。余向キニ室迩キヲ以テ、屢相往来シ、略其ノ人ヲ知ル。蓋シ真ヲ葆チ俗ニ耦シ。小伎ニ隠ルヽ者也。頃人有リ。其ノ遺像ヲ
齎、一辞ヲ題センコトヲ求ム。余私ニ高風ヲ欽ミ、蕪陋ヲ揣ラズ。輙チ為メニ長句ヲ賦ス。字々実録、敢テ文飾セズ。丈人知ルコト有ラバ、マサニ掌ヲ無何有ノ
郷ニ撫ツベシ。
鶉衣蓬髪意怡然。言語禅ニ近ク形仙ニ肖タリ。
世ヲ避ケテ仍懐ク世ヲ済フ志。山ヲ売リテ蓄ヘズ山ヲ買フ銭。
襪材屋ニ満チ纔ニ膝ヲ容ル。川字腔ヲ成シテ時ニ絃ヲ弄ス。
至竟深心誰カ会スベシ。空ク姓字ヲシテ芸中ニ伝へシム。)
妻町子は、祇園林百合子が女也。大典禅師の墓誌に、夫の行に配すと書給へるおもむき、さきに挙る筆を持行ながら、夫に応じ、無言にして帰れる如くなり。夫
に学て画を善す。柳里恭の号の玉の一字をもらひて、玉瀾と号す。夫とゝともに冷泉殿へまねかれて参り、歌を学ぶ。始てまゐりし時、所がらといひ、名のいつ
くしきに、いかなる婦人ぞと、御内の女房達、今や今やと待ゐたるに、思ひの外、糊こはき綿衣に、魚籠を引提たるさま、大原女のわらうづはかぬごとくなれ
ば、大きにおどろきけり。是又、寵辱を心とせざる夫の行に配するなるべし。道人は、かゝる高名の畸人也。かれよりまねき給へる也。富たるにもあらねば、夫
婦ながら仮初の礼儀を表しても有るべきを、世人にまさりて、季節の謝物をとゝのへまゐれり。歌はかの気象に応ずるやうに添削す、とのたまへりとぞ。また殿
より、興じて、あかき蔽膝を婦に賜りしかば、春は母が名残の茶店にでたることもありしとなり。夫は三絃の与みといふものを、さびたるこゑして弾うたへば、
妻はまた古びたるうたをつくし箏にかけて弾、其箏の与みもまたよくせりとなん。世づかぬ家のうちのさまなりき。夫亡して数年の後、身まかりぬ。
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