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人物名 |
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本文 |
彦根ノ隠士、維顕、字伯陽、沢村氏、号琴所、通名は宮内。国侯の世臣なれども、江戸に近待せる日、心疾によりて退く。国制、心疾を憂る ものは復出仕ふる事を得ず。故に意を官途に絶チ、城南、松寺村に閑居す。其居を松雨亭といふ。後再び起ことを諷るものありといへども不肯。貧を分とし、琴 書を楽みて隠を全せり。天資温恭、長中人に不及バ、状貌婦女子のごとしといへども、事に臨て勇敢なる、其一つをいはゞ、平安より帰る日、湖中暴風にあひて 船覆んとす。衆人皆生る心地なきに、琴所ひとり自若、舷を扣てうたふの類、其平素に異なるを見て、人怪しぶに至る。又自云、吾固一善状なし、唯貨色二のも のに在ては未人に対していひがたきものあらずと。又過を聞ては欣然として改む。奴隷の言といへども取べきことあれば必したがふなど、行状に記せり。始宗学 を事とすること年あり。後東涯の門に遊び、又狙徠の書を読て、ますます古義を喜ぶ。其主とする所、経済の学にして、著す所、桓公問対、富強録あり。出仕ず といへども、国を憂るの志により、時を救ふの要務也とぞ。又兵法に精く、八陣本義、其外著書数部有といへども、稿を脱ぜざるもの多しとなん。又詩歌を好 む。詩には琴所稿刪、歌には閑窓集をとゞむ。元文四年己未歳正月九日卒す、寿五十有四也。其詩歌は口気平温にして雅正なるものといはんか。おのれがおろか なる手にて選出すにはあらず、唯その事状にあづかるものを採てこゝにまじへ掲ぐ。 京にありける比、名里持長亭にて、立秋の日歌よみける中に、 かへらんと契りし秋をふるさとの松にもけふや風のつぐらん
松井幸隆亭にて、滝紅葉、 紅葉のいろにうつろふ滝の糸は染てかなしきたぐひともなし
都の東山なる何がしの院にしばし在ける比、月いとあかかりける夜、南面の板鋪にひとりふせりゐて、むかし今のことそこはかとなくおもひ つゞけて、すこしまどろみたるほどに、過しころなくなり給へるあね君の、ありしまゝの姿にて琴をかいならし、いと心よげに見えたるを、あなうれし、つゝが なくてぞおはしぬると、打まもりてゐたるほどに夢さめぬ。夜ひやゝかに人しづまりて、山松の声のみひゞきあひたる、いとあはれに物がなし。 はかなくもさめける夢か玉琴のしらべは庭の松に残して
このことを便に付てふるさとの父君につげ侍ければ、今さらにむねふたがりてなど聞え給ひて、父左平太之章、廓山と号す。 見し夢をきくにつけても玉の緒のみじかきことの音をのみぞなく
ゆきふりつゞきていとゞしく人め絶たりける比、松寺邑の庵にて成べし。 跡たえてとはれぬ雪のふるさとはまがきの山もみよしのゝおく 移居 都城ノ西畔古街ノ隈。三径新タニ依テ酒店ニ開ク。 非ズバ為ニ晨昏違フガ定省ニ。那ンゾ堪ヘン琴鶴ノ落フルニ塵挨ニ。 陶潜門外先ヅ移シ柳ヲ。林通堂前未ダ種エ梅ヲ。 我自ラ人間忘ルコト機ヲ久シ。江辺ノ白鳥莫シ相猜フコト。 (移居 都城ノ西畔古街ノ隈。三径新タニ酒店二依テ開ク。 農昏定省二違フガ為二非ズバ、那ンゾ琴鶴ノ塵挨二落ツルニ堪ヘン。 陶潜門外先ヅ柳ヲ移シ、林逋堂前未ダ梅ヲ種エズ。 我自ラ人間機ヲ忘ルコト久シ。江辺ノ白鳥相猜フコト莫シ。) 去歳癸卯遷ス居ヲ城下ニ。爾来応接日ニ多ク。不堪ヘ其ノ煩ニ。乃チ将ニ辞去セント。寄ス別ヲ諸子ニ。 城上ノ西風秋巳ニ深シ。荷衣転タヾ覚フ塵埃ノ侵スコトヲ。 浮雲落日山川ノ色。蕙帳杉扉猿鶴ノ心。 世路無ク端多ク按ズ剣ヲ。生涯寧ゾ復タ問ハンヤ遺金ヲ。 接輿元是シ疎狂ノ客。好シ去リテ行キ歌ハン楚水ノ陰。 (去歳癸卯居ヲ城下二遷ス。爾来応接日二多ク、其ノ煩二堪ヘズ。乃チ将二辞去セントシ、別ヲ諸子二寄ス。 城上ノ西風秋巳二深シ。荷衣転タヽ覚フ塵埃ノ侵スコトヲ。 浮雲落日山川ノ色、蕙帳杉扉猿鶴ノ心。 世路端無ク多ク剣ヲ按ズ。生涯寧ゾ復タ遺金ヲ問ハンヤ。 接輿元是レ疎狂ノ客、好シ去リテ行キ歌ハン楚水ノ陰。)此時のうた、 いでゞしも世に光なきみか月ややがてかくろふやまのはの雲
守野といへる山里にしばし住し時、人のよみて贈りしうたのかへし、 ならしばのなれゆくともゝよにぞにぬ秋の小田守野守山もり
こゝをも住すてゝし明の春、これかれ誘ひて又遊びてなど、ことばがきありて、 花もまたさすがにしるや立なれし山桜戸の去歳のあるじは 物まうでの記の中に、あはれにおぼえし詞とうた、老曾の杜にぞ来たる、わかゝりしそのかみ、笈を負、師に従ひて、京に物まなびしける比、行かへるごとに此森を過しこといくたびなりけら し。あはれ身をたて道を行ひてと、こゝろばかりはこよなうおもひあがりてげるも、名をあげ父母をあらはすこともなくて、いつしかにしらぬ翁になりはてにけ るよと、今さらにいとかなし。 徒に老曾のもりの下露をわが袖にとはおもひかけきや
松寺の草庵は、ひとゝせ出いにしより、こと人の住けるを、丁未の春より又わが方へかへされてけり。秋にも成行まゝに、むかし植置し萩の いとよく咲けるをみて、 年月をふる枝の真萩今さらにもとのあるじを花もわするな 幽栖の趣を見るがごときは秋夜の弾琴、 酔ヒテ把リ焦琴ヲ聊カ自ヲ弾ズ。古松風定マリテ夜方ニ闌ナリ。 朱絃一曲千秋ノ涙。回ラセバ首ヲ西山落月寒シ。 (酔ヒテ焦琴ヲ把リ聊カ自ラ弾ズ。古松風定マリテ夜方二闌ナリ。 朱絃一曲千秋ノ涙、首ヲ回ラセバ西山落月寒シ。) 即事 幽斎読ミ書ヲ罷メ。静嘯岸バダツ鳥紗ヲ。 遙ニ見ル前村ノ暮。帰牛度ル稲華ヲ。 (即事 幽斎書ヲ読ミ罷メ、静嘯鳥紗ヲ岸バダツ。 遥二見ル前村ノ暮、帰牛稲華ヲ度ル。) 題ス肖像ニ詩集本篇以テ此作ヲ終フ之。 有レドモ志無シ徳。体柔ニシテ気剛。知リテ厥ノ不可ヲ。爰ニ逃レ爰ニ蔵ル。 短琴孤剣。荷衣蘿裳。十年ノ心事。秋月滄浪。 (肖像二題ス詩集本篇此ノ作ヲ以テ終フ 志有レドモ徳無シ。体柔ニシテ気剛。厥ノ不可ヲ知りテ、爰二逃レ爰二蔵ル。 短琴孤剣、荷衣蘿裳。十年ノ心事。秋月滄浪。)江のほたるを題してよまれける。述懐の意も哀なり。 おもふぞよ入江の水草朽てしもよはの螢のひかりある身を
ある禅院のはしらに書付られしうた、 身の後の名さへくちずば埋木の花さく春はよししらずとも
この心ばへいとかなしうおぼゆれば、此草案を書つゞくる間に、かへしの意を口ずさび侍り、 くちぬ名を誰もしのべと書つめし君が操の松のことの葉 右詩歌集ともに、此わたりに蔵せる人、なかりしかば、近江の旧友にもとめて、からうじて得つ。和漢の文章もともに両集に出たれども、あまりにことしげゝれ ばもらしぬ。○介洞は苗村氏、通名道益、世々医を業として近江八幡に住す。若き時は堀川伊藤氏に学びて文学あり。日々の事務をも漢文に筆記す。性豪 にして物にものとせられず、しかも無我なれば人憎ず。其一二をいはゞ、近村へ医療に行く路程、農人の早苗を運び植るにあふ。世のならはしに、苗うゝるとき は、行人労を慰して過るを、此老翁さもせねば、農夫等つぶやきて、彼八幡の道益礼なしと誚る。老人これを聞ながら行過て、帰るさに又こゝを経る時、田にあ る人をこてまねきす。さすがにしる人なれば、田を出て来るに、曰、さきにわれをそしれり。子よくおもふべし。子が苗うゝるも業也、吾医療に通ふも業也。わ れもし子を慰労せば、子もまた吾をしかすべし、いかにと。農人得答へず、頭を掻て退く。又或家の請に応じて、病人を胗速に去んとす。あるじ薬をこひしか ば、曰、既に門を出て数百歩行たる客のために、饗をまうくるが如し、不可カラ及ブと。終に出去ル。これらにて常の趣、知べし。其口号も気象を見るべきもの なれば、こゝに挙。 悪ム蚤ヲ 捕フルニ渠カレヲ計リゴト尽キ復タ防グコト難シ。開キテ戸ヲ偶然見ル月ノ残ルヲ。 王猛手空クシテ憎ミ爾ガ點ヲ。幾回ビカ誤ツテ把リテ腐綿ヲ丸ス。 (蚤ヲ悪ム 渠ヲ捕フルニ計リゴト尽キ復タ防グコト難シ。戸ヲ開キテ偶然月ノ残ルヲ見ル。 王猛手究クシテ爾が黠ヲ憎ミ、幾回ビカ誤ツテ腐綿ヲ把リテ丸ス。) 病中作 花欲シテ辞セント枝ヲ看ル色ノ移ルヲ。丹炉還少有リテ誰知ラン。 漢君衰晩豈ニ無ケンヤ感。起コス感ヲ秋風蘭菊ノ時。 (病中ノ作 花枝ヲ辞セント欲シテ色ノ移ルヲ看ル。丹炉還少誰有リテ知ラン。 漢君衰晩豈二感無ケンヤ。感ヲ起コス秋風蘭菊ノ時。) 此作ありて後、いくほどなく卒す。寿七十有五、寛延元年戊辰歳、十月廿三日也。 (追記) 介洞先に妻有て蚤く亡す。後妻其真率辺幅ををさめざること主翁に過たり。老後薙髪して貞信といへりしかど、ある名はいはで、妙雷と人よ びしは、其声四隣にひゞき、心におもふまゝのことをうち出す人なれば也。あるひはつれづれなる所へ人到れば、よろこびて茶酒をもてなし、昔今のことをかき くづしかたり出で、なきみわらひみ興に入。客座久して対するに物うくなれば、われ酔てねぶたし、今ははや帰られよ、いざいざ、と催さるゝ類ひ、常にゆきゝ する人は馴て心にもかけざるのみ歟、戯に逆ひて長居するも有し。是もわかきより文雅を好み、師にもよらで歌をよまれしが、中には俊発のものもありき。今、 其二三を挙。 題しらず、 同じ枝をいかに時雨のふりわけて青葉が中に紅葉しぬらん
八十四といふ春、かけまくもかしこき御方より、高き齢をいはひ給ひて、連歌の一句を、親しく御筆を染て賜りける。 百千とせ行末長き春日哉、此時によめりしうた、 かしこしなかたのゝ草の露をしももらさで月の影やどすとは
享年八十六にして、身まかりなんとせしとき、 あま小ぶね八十の湊を漕過て彼岸近くなるぞうれしき おのれもかしこにありける日、長居せしまらうどの数なれば、こゝに追慕の筆をそむ。 |