惟然坊は美濃国関の人にしてもと富家なりしが、後甚貧しくなれり。俳諧好て芭蕉の門人なり。風狂して所定めずありく。発句もまた狂せ
り。されば同門の人彦根の許六、其句を集めて天狗集と名づく。ある時はせをと供に旅寐したるに、木の引切たる枕の頭痛くやありけん、自の帯を解てこれを巻
て寐たれば、翁みて、惟然は頭の奢に家を亡へりやと笑れしとなり。ある時、故郷の篠田氏なる人のもとにて数日滞留し、浴に入たるが、いづこへか行んとおも
ひ出けん、其浴所に女の小袖のありけるを、あやまりて取かへ著つゝ、忽うせたり。さもしらで、其家くまぐままでをたづねて、大きにさわぎしが、四五里外の
里にあそびてありしとなん。又師の発句どもをつゞりあはせて和讃に作りて常に諷ひありく。これを風蘿念仏といふ。風蘿ははせをの号なり。
まづたのむたのむ、椎の木もあり夏木立、音はあられか檜木笠、南無あみだ南無あみだ
、此例にて数首あり。此人のむすめは尾張名護屋の豪家に嫁したるを、かく風狂しありく後は音信もせず。あるとき名古屋の町にて行あひたり。女は侍女下部な
ど引つれてありしが、父を見つけて、いかにいづこにかおはしましけん、なつかしさよとて、人目も恥ず、こつがい乞丐ともいふべき姿なる袖に取つきて歎きし
かば、おのれもうちなみだぐみて、
両袖に唯何となく時雨哉。
といひ捨てはしり過ぬとなん。此人のかけるもの、或人のもてるをみしに、手いとよくて、詞書は、
有ルモ千斤ノ金、不如カ林下ノ貧ニ。(千斤ノ金有ルモ、林下ノ貧ニシカズ。)
と書て、
ひだるさに馴てよく寐る霜夜哉。
又関の人のもてるには詞書、
世の中はしかじと思ふべし、金銀をたくはへて人を恵めることもあらず、己をもくるしましめんより、貧しうして心にかゝることなく、気を
養ふにはしかじ、学文して身に行ざらんより、しらずして愚なるにはしかじ。
人はしらじ実此道のぬくめ鳥。
これらにて其情その生涯のありさまをしるべし。 |