天民並河氏、諱亮、字簡亮、即通名とす。誠所、五一名永崇、字永父、仁斎門人。五畿内志の作者。後伊豆三島に住す。
の弟、城南鳥羽横大路の人、自丹波と書るは、その本国歟。為人胆斗才秀、比すべき類なし。伊藤仁斎に学ぶといへども、後その学をうたがひて、自一家を成せ
り。其説は天民遺言に見ゆ。此中、伊予松山に下り学を講じ、別に臨みて、其国老の請に応じて著せる松山晤語の一篇、其領地の治まらざるは一己の治まらざる
なり、座禅僧の蒲団上に、鼻端の白きを守るごときにはあらず、といへるなど、其経済の才を見るべし。又論語郷党篇に題して、○画キ得タリ金毛ノ獅子。画キ
テ皮ヲ不画カ骨ヲ。那箇這骨。道々。と書、其説に、此篇、孔夫子の礼貌を形容せりといへども、是皮毛なり。我を用うるものあらば朞月のみにして可也。三年
にして成ことあらん。或は訟を聞こと我猶人のごとし、必ヤ也訟なからしめんかなと宣ひ、又魯ノ政を聞こと三月、魯国大に治るごときその骨也、といはれしと
ぞ。仁斎歿後、其徒、東涯に従ふものと、天民に属するものと分れたり。或時、門人集りて、先生もし志を得給はゞ、吾は何にかつかひ給はんなどとりどりいへ
る時に、一人、吾ごときものは物の用に立べからず。唯倉廩を守るにおいては、一粒米をも掠べからずといふ。天民、子がごとき人にいかで倉廩を守らすべきと
いへれば、その人色をかへて、こは情なき仰や、盗むべきものとや思召といへれば、先生笑ひて、否、自盗む才ある人には托すべし。子は人に盗まるべき人なり
といへり。又東涯此人を評して、其才は抜群也。されども六尺の孤を託すべからず、といへるを告るもの有。天民点頭して、東涯よく我を知れり。自ラ奪んはは
かるべからず。唯人の為には欺るべからず。東涯は是に反せり、危しといへり。其器量凡かくのごとし。官に上書し、松前に続ける蝦夷の地を、本邦に属せしめ
んの志ありしかども、齢足らず、三十有九にして歿せれば事に不及バ。また国学をも心得たる人也。伊勢物語芥川の段を評て、比喩の体、神代巻の文法をうつせ
るものなるべしといへり。此説は左注によりていへり。加茂真淵が左注は後人の裏書なりといふ説には違へり。
又徹書記のよめる都擣衣の歌に、
聞によも麻にはあらじ都人うつやいかなる衣なるらん。
といへるを難じて、擣衣の情にはあらず、都といへる題をたしかにせんとて、麻にはあらじ、綾や錦かとこゝろをつけんは、いとも卑き心ばへなりといへり。又
松井幸隆が寄スル車ニ恋のうた、
牛ながら引キもいれやとあけてまつ我かど過る小車やたれ。
是は源氏物語はゝきゞのかたゝがへのところに、牛ながら引いれつべき門やある、といふ詞をとりて、よくよめるといひあへりしを、難じて、かくては何某の花
奢をのこが妾のやのさま也。恋のうたはいかにも人目を憚るこそ似あはしからめといへり。 按に、此うた、近比上木せる幸隆の家集には見え
ず。幸隆にはあらざるか、若又、集を撰ぶ人省ける歟。
其自詠ははつかに一首をきけり。その故郷鳥羽にゆきて、
霞けりさすがに春としら鳥の鳥羽山まつの雪げながらに
以上は前にいだせし大橋の尼の伝をも話せし、馬杉亨安老人、始は仁斎に学び、後此門人となりしがむかしがたりなり。天民の説は此翁ならではしれる人も
なく、予ならでは聞伝へしものもなくなりたれば残りなくこゝに挙ぐ。又此老翁蔵されし天民の著述、かたそぎの記あり。国文もまた凡にあらず。しかも写本な
ればしる人まれに、うせなんををしむがうへに、既に此記をぬすみ略して、己が発明にして、秋斎間語にかけるなどをにくむが故に、事長けれども全文を左に掲
ぐ。
かたそぎの記
七尺ばかりにけづりたる木ふたつを、あぐらの足のかたちになゝめに打ちがへて、神社のむねに、牛の角をいたゞきたらんやうにたてるものあり。ちぎとぞい
ふ。またはかたそぎともいふ。あるはかつを木ともいふ。度会の神主の、かたそぎの千木は内外にかはれども、とよめる木のはしをかたかたにそぎたれは、かた
そぎとはいふめる。打ちかへたれば、ちがへ木といふを、はぶきて千木とはいふなり。かつを木は、丸き木を三尺四尺ばかりにきりて、あるは三つ五つばかり、
かたそぎの間に横に打ならべたる物をぞいふ。ほしたる鰹魚やうのかたちにかよひたればかつを木といふ。千木・鰹魚木はおなじ物にあらず。延喜式に千木、鰹
魚木、とりはなしてしるしたれば、そのわかちいちじるきにや。さて此二つの木・枝葉のものゝやうに見え侍るに、内外にかはれども誓はおなじなどよみ侍る
は、ふかきことわりこそ侍らめとしらまほしくて、人にたづね侍れば、色々にぞいふなる。みなそのこゝろ得ぬことをのみぞいふ。その中にも、是は何のふかき
ことわりも侍らず、上りたる古しへの代には、人もすなほに、事もすくなく、かはら、ひはだなどやうのうるはしき宮づくりもまだなく、あめの下しろしめすす
めみまのみづの御あらかも、みなわらちがやなどにておほひぬべし。いまもわらふきたる屋ねのかみには、わらをふとくつかねて、なりは今の人のかしらのも
とゞりゆひふせたらんやうにて、神社のかつを木おきならべたるすがたしたるものあり。田舎の人は是をからすおどりといふめる。是なくては屋根ぬいたるつか
ねのなはぶしあらはれ出て、雨露霜にくちはつれて、やねのことぶきみじかければ、かならず是をぞおく。むかしもわらふけるものにはかくてありつるを、檜皮
にうつりても猶このかたちをのこして、かつを木とはいひたる也とぞ。これらぞさもありぬべきことなり。ち木といふものぞ、わきてしれがたき事にや。宝基本
紀といふ古きふみに、ちぎは智義なり、などいふよりはじめて、内外の宮の内そぎ外そぎ、陰陽のかたちをのこしたるなど、何くれのふるきことわりをとき侍る
も、さまざまに多かれど、さもありぬべきともきこえたらず。わらふくべき屋根は、先ほねとする木をひだりみぎりより打ちがへ、この木を便としてさてぞふ
く。田舎人は合掌の木といふ。此木のうちあはせたる、人の手ふたつをあはせ、仏ををがむに似たれば、かくは名づくるにや。いまはこの木のあまりを切すてゝ
そろへ調たり。あがりたる代にはそのまゝに残して、かくやのうへに出したる也。是もあながちになだらかにとゝのふることを事とせざる古しへの風なり。それ
をのこしてぞ今は檜皮ふけるにも、神の社には此木をまうけたるなり。そのかみはおのづからなくてかなはざることに侍るめるを、ひはだにてふきかへたる後
は、やうなきものゝ様也とぞいふ。是らのことわりや、すこしかなふべきやうなり。されど中臣の祓に、宮柱ふとしきたち、千木高知て、みづの御あらかに仕れ
りといへるは、皇居のいかにもゆたけやかに、きよらに作りたてられて、いつくしきさまをかきつらねたる辞ども也。宮柱ふとしきたてる宮ゐは、かやぶきにま
れ、わらぶきにまれ、そのつくれるさまは、清らにとゝのひたるをぞせにすべきに、この合掌のすゑきりそろへずて、屋根のへにつらぬきいだしたらん、田舎の
里ばなれなどの、山のはし、やぶがくれに、木ぞ竹ぞなど取しばり合せて、古きむしろ、破れごもやうの物とりかさねおほひて、老さらぼひ、病つかれたるかた
ゐなどをおし入置たるものゝ屋根のやうにはいかでかあらんな。千木は合掌の木の末をあましたるすがたならんといはんも、まさしき事ともいひがたくや侍ら
ん。猶べちにことわりこそ侍らめ。されどかうやうの事は、ふかくこゝろにいれぬ筋なれば、しひてもたどらずしてやみぬ。正徳三年長月ばかりに、京の北なる
岩屋山見にまかりける道に、雲がはたといふ山里を過ぬ。すこしおくまりたる家に、千木さし揚げたるをふと見つけぬ。あやしのことや、是は神の社にすなる物
を、かくむねむねしからぬ家につくりたるは、心得ずも侍るかな、かうやうの世にうとき片山里などは、古きこともてつたへて、種姓などいひはげむ、もしは遠
きむかしにありけん国の宮づこなどいひけんたぐひの子孫の、はふれにたれどなほむかしおぼえて、かくことなる家作して住なるにこそと、おしあてにおもひな
す。しらまほしくて、田がへしするをのこにとへば、これは何のこともなき里人の家居に侍るといふ。あのやうの木は神の社にこそするなるをことわりこそあら
め、と猶とへば、さることはしりはべらず。むかしより誰々も仕りなれたる事にて、あやしむべきことにも侍らず。是よりかく入給はゞ見たびなん。いづれかあ
のやうの木なき家や侍らん、心得ぬ仰ごとも侍るかなとて、すき打かへして後は、しかじかいらへもきこえず、むつかしのとひごとゝはらだちたるなり。山里人
のかたくなゝるくせなるべし。入行まゝに見れば、げにもいとさゝやかなるふせや、つちかべに窓ぬり残したるあばらやまでも、大かたは千木をぞ揚たる。猶こ
とわりもあらんとふかくとはまほしきに、翁にあひぬ。かせぎにおふこかれて、道のかたへにやすむ。爪木に折そへたるを見て、是はあけびといふ、などいひよ
りて、さてぞとふ。指さして、かれはなにのためにすることにか、ととへば、打笑て、わらにてふき侍るは、軒端よりゆひふせもてのぼりて、終のつかねはおそ
ひ竹をかためとし侍る也。されど風つよく吹しきるころは、大かたは此破風ぐちより吹はなちはへるに、おそひ竹ばかりのかためにては、かぜのちからにかちが
たく侍るに、此木のおさへたるにぞ、風には吹あげられざる也。かはらや板ふけるやなどには、おのづからかゝるくだくだしきことはなくてもはべる。わらやは
かくてぞ、など恥げにいひけちつ。此おそひ竹といふを見れば、長き竹を屋根のむねに三本はかりならべて、からすおどりの下にぞ通れる。棟をおさへふせたる
なれば、おさへ竹といふべきを、辞のかよへるにて、おそひ竹といふにや。此山人のいふにぞ、ち木といふ物のかやぶきなどには、かならずまうけつべきことわ
りいちじるくぞしりぬ。八十伴の男の朝な夕なにいでいりつかふまつる宮ゐのわらぶきは、たかくこちたくふきわたしたれば、この木をもそのほどに合せて、ふ
とくたくましき木を高くそびやかして、あめにさゝふるかと見ゆるばかりにぞすめる。さてぞ高天原に千木高しりてとはいふなる。むかし今の人の心得がたき事
にいひあつかひなやみたることを、けふぞおもひとりぬるよと、ひとりゑまる。さて此木の名をいかにいふにやととへば、かつう木とぞ。いかでかつう木といふ
にやと重てとへば、かつう木にて侍れば、かつう木とは申侍るなりと、ことわりもきこえぬこたへをしつゝ、こゑすこしとがりて、むつかしきかほくさして、柴
打かたげつゝ立てゆく。くだくだしくとふを、ろうじていふにやとあしくおもひちがへたるなるべし。今すこしよくもをしへよかし。になふといひ、かづくとい
ひ、かたぐるなどいふことばを、このわたりにては、かつうとぞいふ。この木の屋の棟にうちまたがれるすがたの、人の肩に物をかづくさまに似たれば、かつう
木とはいふとはさてぞしられぬ。からすおどりやうの物をかつを木といふ。此ち木をば、そぎとも、さてはかつう木ともいふべきなり。此木をかつを木ともいふ
は、かつうぎといふをあやまりていふにや。一とせ、伊予の国にまかりて、熊山といふにいたりぬ。松山といふより七八里ばかりふかく入もてゆく所也。。僧空
海の住たりし岩屋山つゞきたり。石道ふみなやみていたくごうじたれば、山ざとにいたりて馬を借りてのる。口につきたるをのこ、ものいふさま打ゆがみて、こ
と国の人のやうなり。折節、郭公の啼けるに、これは何鳥としれる、ととへば、是はこつてどり、とこたふ。歌草紙に郭公をくつて鳥といふことを書たり。歌よ
む人もなみなみはしり侍らぬことを、をかしくもあるかなと、などてこつて鳥といふぞととへば、あれきゝめせ、こつてかけたるかと鳴侍る也といふ。さてはく
つでをこふといふ昔物語しりつらんよとて、馬子にとり合セてろうじてわらへば、心得ぬかほつきにて、こつてにこそ侍れ、沓代と申さばこそよ、とつぶやく。
心得ず、こつてといふものあるにやととへば、五月のころ柴のわか葉にこつてといふものゝできはべる、此鳥めらは、かならずこつてのいできはべるときにこそ
は、かまびすしく啼どよみ侍るとぞいふ。さて、此鳥をほとゝぎすともいふかととへば、かしらをふる。さらばこと鳥にほとゝぎすといふとりやある、ととへ
ば、つひにしうけ給らずといふ。ほとゝぎすといふ名をしらぬ国もありけるよと、ともなふ人皆わらふ。さてぞ歌草紙にはこつてといふことを、あやまりてくつ
でといひなして、沓売の生れかへりしなどいふ事をそへたりとは知りぬ。かのこつては木のみのやうにて、柴の葉のうらになりいづるものとぞ。このくつて鳥の
こつて鳥といふがまさしきすぢなることは、たれかおもひより侍らん。千木といふものも、こゝらの人さまざまにもてあつかひきこえけんに、是もまさしき筋を
ばつひに知り侍らざりしに、かくかた田舎の山里にてならひ知りはべりぬれば、失ては田舎にもとむるといふはかうやうのことにこそ。雲が畑といふは京より三
里ばかりも北へ入りて、愛宕の郡、小野の郷の山里、法皇の御封也。谷川いときよくながれたり。香魚を貢として供御に献るとぞ。
(追記)
子、文輔、纔二歳のとき、父に別れしかども、其意を嗣て医を業として京師に名あり。学文の名はさしも聞えざりし。六十余にして近年歿せ
り。天民の説に、儒は医を兼べし、しからざれば、貧にして学卑陋に落といへりとぞ。私按ずるに、仁斎文集には儒医の説ありて、儒を名とし、利
を医にはかることを誚れり。所見異なり。
○因に記す、右門人の馬杉老翁は老て健なる人にて、九十に近き比、嵯峨へ花見にあゆみ、あらし山の奥大悲閣の開帳にまうで、明の日また岡崎の歌の会にゆ
き、その明のひ、又孫に誘れて、再び嵯峨に遊れしが、けふは老人の達者だてもみぐるしとおもひて、大悲閣へは孫斗やりて、大堰の川辺に休らひ、花ばかり見
てありしといはれき。膳所の親族のもとへも折々歩にてあそぶ。道あしきにも、足駄にて京中の歩行は苦とせず。唯老のひとりあゆみを子息のわぶるゆゑに、友
をいざなひていづこへもゆかれし。眼もよくて、此比まで細字の写本をもせられし。殊に歌を好みて、若きときは高松宰相重季卿の御門人にてありしとぞ。歌集
は生存の日、予にも托せられて一挍合に及びぬるが、よき歌ども多かりしをおぼえず。中にもめづらしきが心にとまりしは、
女親に夕定晨省の孝ある人、みやづかへにより、かりそめに江戸に下るを歎きけるに、大義を示して餞別せらる、
たらちねに仕ふる道も二つなき心にいそげ東路の旅
胡子無シ髭といふ古則を題して、
よしの山花は一木もなかりけり峰にも尾にもかゝる白雲
老子経の車をかぞへて車なしといふことを、
かぞふれは身は小車のわれもなし何にひかるゝ心なるらん
山家を、
こゝのそばかしこの谷に住里はかならずとなりありとしもなき
これは下の句におもひよらず論語の語を用られしが興あり。はつか月を、
老らくの末はつかなる身にぞ思ふ今より月の宵々のかげ
ことに殊勝にぞ。百歳までもと見えしが、老健のたのみがたき、九十四にて歿す。 |