洛東蹴上に樵者七兵衛なるもの、一日、山に入て帰ること遅かりしかば、其妻迎にゆきたるに、とある崖下に、菜を一荷にし、息杖にもたせながら人は見えず。ふと見あぐれば、木の枝に大なる蚺首をたれて、腹ふくらかに見えしかば、こゝろきゝたる女にて、是は夫を呑たるならんと、やがて彼荷に添たる鎌をとりてむかへば、蚺口をひらきて是をも呑たり。呑れながらこの鎌にて、口より腹まで切裂しに、夫はたして腹中にありて、己とゝもに地へ落たれば、たゞちに肩にひきかけて我家に帰り、数十日保養を加へて常に復しぬ。此後頭に髪つゆ斗も不生、其わたりにて薬鑵七兵衛頭のあかく兀たるを俗にやくわんといふ。
と異名せるが、山には懲て畠物などうりてありきし。今をさる事凡四十年前、六十余の翁なりしと、予が知る人かたりぬ。其勇其智、漢元帝のために熊にむかひし馮婕伃におとらずといふべし。また同じたぐひは、○享保三年戊戌十一月廿八日哺時、丹波国舟井ノ県に野猪傷をかふむりて怒走り、八木村より南広瀬村に入、山本をめぐりて直に山室村に向ひ、鳥羽村を過、一人田かへしてありけるものを牙て、尚荒まさりぬ。樵者久兵衛なるもの年六十四、薪を負て帰るさにあひて、俄にさけかくれん所なく、そこにありつる樹を攀、地を離るゝことはつかに三尺斗、猪裳の端を啣て引落しければ、せんかたなく相敵すること久うして、遂に崖下に墜。猪いよいよ猛りて喰ひ噛て、あまた所やぶられしかば、頻にさけび呼といへども答るものなし。是が妻某、年五十四、聞きつけてとみに走来て、袂をもて猪の首におほひ、頸に跨て抱とゞむ。猪動ことを得ざる間に、頻に、命を救へと呼。こゝにして村民弐人相継て来り、短刀をもて刺。また一人来て、斧をもて其脚をうつ。既にしてあまた集り、其疲たるに乗て殪しぬ。樵者は終に活ことを得、月比をへて、創も痊たり。其所亀山の領地なれば、その妻の烈を賞し給ひて穀を賜ぬと、東涯先生の筆記に見ゆ。
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