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人物名

人物名 有馬凉及 
人物名読み ありまりょうきゅう 
場所 京都  大阪  京都黒谷 
生年  
没年  

本文

有馬氏涼及の名、父子兄弟に及ぼして四世医を業とす。伊藤氏と四世の交りあるよし、蘭嵎の傷寒論神解の序に書るは、仁斎先生の考より、 東涯、蘭嵎兄弟を経たるなるべし。世々国手の称ありて世々不拘也。其狂態伝ふる所の笑話多し。初代凉及、号シ臥雲ト、又存庵といふ。後水尾院特徴て御医と し、階、法印を賜ふ。御療の故事は、衆医評を経て後御薬を奉るを、一時帝御悩甚しき時、翁胗し奉りて曰、我よく治し奉らん。然れども衆議を経るとならば不 能ハと。止事を得ず翁が意にまかするに、やがて調製し手煎じて奉に、瀉下して後、御悩速に快復ましましける。これ承気湯を奉れば、もし衆医にはからんには 必不ル肯ことをおもひけるとぞ。又ある時急に召るゝに、折ふし碁を囲みて参内遅々に及び、頻に御使を下さるれども、猶局を終ざりしかば参らず。是に罪せら れて京師を逐れ、大津に蟄す。然もほどなく召還されぬるとぞ。一時某ノ国侯の病によりて其国に至り、滞留数日に及ぶ間、請ていはく。 あたりに召仕ふもの、女ならでは柔順ならず、ねがはくは借し給れと。即日侯の侍児容色あるもの両人をあたへらるゝに、よしといひて喫茶、喫飯唯これを使令 し、夜も左右に臥しむ。然れども情を通ずるに不及バ。ほどなく侯の病愈て京に帰る日、其両婢を請て伴ふ。やがて今度の謝におくらるゝ所の金をもて他に嫁せ しむ。一日、嵯峨角倉氏に治療に趣クの路次、大樹の桜を見て購ふに価甚貴かりければ、彼家にこひて其金を借り、数多の人に荷はせて我 家に帰る。さて庭によこたはせたれども、植べき地なければ、人々いかにせましとわぶるに、よしよし、たゞさながらおけ。寐ながらみるさくらとせん、といひ けるもをかし。翁、茶事を好む。一日、百貫の茶碗を買しときゝて、北村季吟見に行れたりしが、まづさまざまの物語し、例のごとく茶を 喫して後、秘し給ふものならめども、彼もの一め見せたまへと乞ふに、それは今茶を点じて参らせたる也、といひしかば、さしもの季吟も自失せられしとかや。此 二条は晋子其角が類柑子にもみえたり。

(追記)

○此後三代同じく凉及を名とす。次代は其子、三代四代は兄弟にて嗣り。次代歟三代歟よく知らず。就中放蕩の人ありて、花街に遊ぶをこ とゝし、日を経て帰らず。然も其間といへども傷寒論を手に放たず、毎紙爛れてよむべからず。あまりの放蕩にて、一旦、父子の親を断るれども、其志を知りて 免れたり。病家に招かるゝに、著べき衣服なく、裸体にて籃に乗行しこともありつるとぞ。

第四代、名は元函、是また放蕩にてはじめ赤貧也。或時は人を療していふ。此謝儀をひそかに我にあたへ給へ、わが家にもて来て妻にしらせ ば、米塩の価にせん、をしむべしと。此類の話多し。後蘭嵎の吹挙により、紀藩に召れて侍医となる。其家数世の説を大成して、傷寒論神解を著す。唯大陽三篇 のみ。其説に曰、陽明篇以下所説クは直中にして、所謂中寒也。傷寒伝経は此三篇に止ると。大陽篇の内他薦の語交るもの、他篇の内に大陽篇の語 攙入せるもの有とて正せり。 又曰、 未ル為サ次伝ヲ者。標スルニヲ之以テス大陽病ヲ。己ニ為ス次伝ヲ者。標スルニ之ヲ似テス傷寒ヲ。(未ダ次伝ヲナサザル者、コレヲ標スルニ大陽病ヲ以テス。 已二次伝ヲナス者、コレヲ標スルニ傷寒ヲ以テス。) と。実ニ一家の説といふべし。其神解の号は、 思ヒ之ヲ思ヘ之ヲ。神其レ通ズ之ヲ といふ古語によりて、蘭嵎の題する所にして、即チ序有。其外、国老の大夫をはじめ数医の序あり。いまだ印行せるをきかず。有益の書とおぼゆるにいかなるに や。

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