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人物名

人物名白幽子 
人物名読みはくゆうし 
場所京都吉田芝墓 
生年 
没年 

本文

白隠禅師、初め既に一隻眼を具すといへども、全脱洒せず。自おもへらく、急に精彩を著、一回捨命し去んと。猛く工夫凝すこと一月、寝食を廃するに至る。終に心火逆上して肺金焦れ、身は渓水のあたりを行が如く、脚は氷雪を踏がごとし。肝胆弱りて物におそれ、夢にもうつゝにも、あらぬもの眼にうかみ、汗生じ、涙絶ず。おどろきて医療を尽すといへども、すべて験なし。或人いはく、洛東白川の山中に巌居せる人有、白幽子と名づく。寿は二百歳にも過たらんやしらず。是をのぞむに愚なるが如し。山深く住て人にまみゆることを好まず。行時は走りて必避く。里人専ら称して仙人とす。もと石川丈山の師にして、精く天文に達し、深く医道に通ず。若礼を尽して問者あれば、希に言を出し示す所あり。退て考れば大に利有と。こゝに於て、宝永七年庚寅正月、美濃の国よりたちてかしこに趣く。山深く入こと二里斗、樵夫に路をたづね、雲をわけ岩をつたひ、からくして至りつゝ見れば、洞口に蘆の簾を掛たり。透間よりうかゞへば閉ヂ目ヲ端座す。蒼髪は垂て膝に至り、朱顔うるはしくして棗のごとし。太布の衣を掛け、軟草の、席を敷、机上に中庸、老子、金剛経を置のみにして、飲食の器、夜の衾も見えず。凡風致清絶人間にあらず。魂怖れ肌戦き、つゝしみて病の由を告、救ひを乞ふ。初知る所なきを以て辞すといへども、請ふこと休ざるに及びて、つひに手を捉て九候を察し、五内を窺て後、額を攅て曰、已ンヌル哉ナ。理を観ること度に過、終に此重症を発す。針、灸、薬の三物をもて救んとせば、扁、倉といふとも能為べからず。公、今内観のために害せらる、つとめて内観の功を積ずは、終に起ことあたはじ、是地によりて倒るゝものは、地によりて起の謂也と。つひに医経を引、道書を挙、示す事丁寧反復す。其要、五陰居リ上ニ、一陽占下ヲ。是を地雷復といふ。冬至の候也。真人の息は踵を以てするの謂、三陽下に位し、三陰上に居す。是を地天泰といふ。孟正の候也。天得レバ之ヲ。則チ万物発生の気を含み、百草春化の沢を受。至人元気を下に充しむるの象。人是を得れば営衛充塞、気力勇壮也。反スル之ニ則五陰居リ下ニ陽上に止る。是を山地剥といふ。九月の候にして、天人ともに枯槁揺落の象也。かゝれば真気を臍輪丹田に蔵し、歳月を重て、守一無適なれば、長生久視の神仙なるべし。浩然の気を養ふといふも亦是也と。こゝにして禅師、姑禅観を抛下し努力て治を期せんといふ。子微笑して曰、禅観又他にあらず。大凡観は無観をもて正観とす。多観は邪観とす。向に公、多観をもて病を得たり、今救ふに無観をもてすべしと。終に仏説、祖語をもて清浄観の真正を示す。其中に阿含の用酥の法、心の労疲を救ふこと妙也といふ一条、師其目を請問に及て、乃曰、行者定中、四大調和せざるをおぼえば、心を起して此想を作べし。たとへば、色香清浄の軟酥、如キ鴨卵ノ大サノ頂上にあり。私云、酥は牛羊の乳を以てつくり油に和す。諸瘡を治すといふ。凡膏薬のごとし。 其味、微妙ニシテ而遍く頭を潤し、やうやう下に及び、肩臂、両乳、胸膈、肺肝、腸胃、脊梁、臀骨、次第に注ぎ将去ル。この時胸中の五積、六聚、疝癖、塊痛、随ヒテ心ニ降下シ、水の下に就がごとく、歴々として有リ声、遍身にながれ、双脚より足心に至りて即止ム。行者再ビ此想を作べし。彼浸々として、潤下ところの余流積湛て、世間の良医の種々妙香の薬物をもて、煎湯として浴盤の中に盛、我ガ臍輪より以下を漬蘸がごとしと。此観を為とき、唯心の所現のゆゑに鼻に希有の香気を聞、身根妙好の軟触を請、身心調適す。此ノ時積聚消融、腸胃調和し、肌膚光沢を生じ、大に気力を増す。不ン怠ヲば何の病か治ラざらん、何れの仙か成ラざらん、何の徳か積ざらん、何れの道か充ざらん。其効の遅速は、行人の勤ムると怠タるとにあるのみ。我レむかし多病、公に十倍す。されども終に是をもて、一月ならずして衆病大半鎖除す。今此山中にありて寒をおそれず、飢をしらざるも皆此観力也と。禅師示シを聴受して辞シ去ル。後三年を経て、従前の病患自然に治す。たゞ病去るのみにあらず、大疑団徹底透得シ、大観喜を得るもの両三回、省覚怡怳数次、もと二三の襪を著て、足心常に如ク氷なりしに、老の後不襪セ、炉によらざるも病ことなきもの、彼方術の余勲乎と。禅師所ノ著ハス夜船閑話、及、闡提記聞等に見えたり。

(追記)

私云、白幽子の始末此外に聞所なし。机上の書籍、儒、釈、道を兼たるは博大士に似て、しかも維摩の黙に遊ぶ。英雄人を欺くにて、若真意を著さんために、かりに此人をまうけ、白川の幽人をもて名とせるもまた知べからねども、年月などさだかに記されたれば、こゝに録す。示す所の法は実に人に益あるべし。故に要をとりても猶繁きをいとはず。禅師為人の志を嗣のみ。

図版